西村伊作(読み)にしむらいさく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西村伊作」の意味・わかりやすい解説

西村伊作
にしむらいさく
(1884―1963)

文化学院創設者校長。和歌山県新宮に生まれる。1921年(大正10)わが子の教育のために文化学院を設立し、与謝野晶子(よさのあきこ)、石井柏亭(はくてい)らの協力を得て、芸術による自由主義的な教育を行う。1943年(昭和18)不敬罪容疑で逮捕され、文化学院も強制閉鎖措置を受ける(戦後再開)。主著に『生活を芸術として』(1922)、『我に益あり』(1960)などがある。

[三原芳一]

『文化学院史編纂室編『愛と叛逆――文化学院の50年』(1971・文化学院出版部)』

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改訂新版 世界大百科事典 「西村伊作」の意味・わかりやすい解説

西村伊作 (にしむらいさく)
生没年:1884-1963(明治17-昭和38)

教育家。和歌山県新宮に生まれる。大山林地主の息子として育ち,その財力を生かして美術,建築,陶芸などを学び,国際感覚を身につけた。長女の小学校卒業に際し,その個性を伸ばしうる自由な学校を求め,与謝野寛晶子,石井柏亭,河崎なつらの協力を得て,みずから出資し,1921年東京駿河台に文化学院を創設した。〈日本人として未来の文化的生活を営む素養を与える〉ことを目的に掲げ,また校長として,個性の尊重,男女の平等をめざす自由主義的教育を実践した。戦時下,その教育思想が危険視され,43年不敬罪で検挙され,同9月には学院も閉鎖された。しかし第2次大戦後46年に学院を復興文学,建築,美術などの個性的な教育で知られている(1976年に専修学校認可を得る)。自伝に《我に益あり》(1960)がある。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「西村伊作」の解説

西村伊作
にしむらいさく

1884.9.6~1963.2.11

明治~昭和期の教育家。和歌山県出身。広島市の私立明道中学卒。平民社運動に参加。1921年(大正10)娘の教育のため東京駿河台に文化学院を創設。与謝野晶子(あきこ)ら文化人を招き,文部省令にしばられない自由な教育を実践する。23年には息子のために男女共学とした。教育方針が当局の忌諱にふれ,43年(昭和18)不敬罪で起訴,同校も一時強制閉鎖された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西村伊作」の解説

西村伊作 にしむら-いさく

1884-1963 大正-昭和時代の教育者。
明治17年9月6日生まれ。大正10年与謝野鉄幹(よさの-てつかん)・晶子(あきこ)らの協力で文化学院を創立し,芸術を重視した自由な学風の教育をめざす。昭和18年不敬罪で逮捕され,学院も強制閉鎖された。戦後21年に再開。昭和38年2月11日死去。78歳。和歌山県出身。明道中学(広島市)卒。自伝に「我に益あり」。

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