西村遠里(読み)にしむらとおさと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西村遠里」の意味・わかりやすい解説

西村遠里
にしむらとおさと
(1718―1787)

江戸中期の暦学者で和学者。生国は大和(やまと)。京都に在住し、姓は藤原、左衛門または千介と称し、名は遠里、字(あざな)は得一、居行と号す。1752年(宝暦2)土御門泰邦(つちみかどやすくに)にあげられて宝暦(ほうれき)の改暦にかかわった。池部清真(きよざね)について数学を学び、山崎流の測量術にも通じた。暦算を初め幸徳井(こうとくい)(賀茂)保篤(やすあきら)(1702―1748)に学んだが、独学により当代一流の暦学者として知られるに至った。1763年9月朔(さく)の日食は官暦には記載されなかったが、遠里はあらかじめ4分半と推算したことは有名である。天文暦算、随筆など数十巻に及ぶ著書があるが、なかでも『授時解』『貞享(じょうきょう)解』はその代表作である。

[渡辺敏夫]

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朝日日本歴史人物事典 「西村遠里」の解説

西村遠里

没年天明7(1787)
生年:生年不詳
江戸中期の暦算家。京都の人で,天文家の土御門家仕え,その指南番となる。あまり深みはないが大部の『授時解』その他多作の著述家で,『万国夢物語』『居行子』『天文俗談』『数学夜話』『天学指要』『遠里随筆』『本朝天文志』などの天文,数学にかぎらず一般知識人向けの随筆,学問論を残す。宝暦改暦に当たっては,将軍徳川吉宗の意図に従って,西洋天文学の成果を取り入れて,改暦をはかっていた江戸の天文方に対して,伝統的暦法によろうとした保守派の土御門一派を代表する立場に立ち,天文方の日食予測が当たらない点を指摘し,江戸側のプロジェクトを失敗させることになった。

(中山茂)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西村遠里」の解説

西村遠里 にしむら-とおさと

1718-1787 江戸時代中期の暦算家。
享保(きょうほう)3年生まれ。池部清真(きよざね)に算学をまなび,暦学もおさめる。土御門泰邦(つちみかど-やすくに)のもとで宝暦の改暦にくわわるが,途中で辞任。宝暦13年9月1日の日食を予知した。天明7年死去。70歳。大和(奈良県)出身。字(あざな)は得一。通称は左衛門,千助。号は居行,得一堂。著作に「授時解」「天文俗談」など。

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