覚鱉城(読み)かくべつじょう

改訂新版 世界大百科事典 「覚鱉城」の意味・わかりやすい解説

覚鱉城 (かくべつじょう)

日本古代の城柵。758年(天平宝字2)の桃生(ものう)城についで767年(神護景雲1)に宮城県最北端に伊治城が造られると,次には北の胆沢(いさわ)の地つまり岩手県南部が,律令政府にとって領土獲得の対象となった。そこで伊治城から13年遅れて780年(宝亀11)に覚鱉城築城の議がもち上がった。おりしも伊治城より南の長岡(宮城県大崎市の旧古川市)の百姓家が賊に焼かれる事件が起こり,造営はいよいよ急を要した。同年3月に按察使(あぜち)紀広純が直接築城の指揮を行ったが,蝦夷出身の伊治呰麻呂(あざまろ)の反乱にあい,殺害されるという事件があったので,完成したものかどうか不明である。覚鱉城は,伊治城と胆沢城の間にその遺跡が求められてきた。まだ所在地は不明であるが長岡郡内説があり,宮城県の旧古川市で発見された大城柵跡(宮沢遺跡)を覚鱉城に関連するものとする説もある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android