解部(読み)ときべ

精選版 日本国語大辞典 「解部」の意味・読み・例文・類語

とき‐べ【解部】

〘名〙
令制で、刑部省に属し、被疑者糾問(きゅうもん)などを行なった官。持統天皇のときに一〇〇人置いたが、令制ではこれを大・中・少の三等に分け、それぞれ一〇人、二〇人、三〇人の計六〇名とした。〔令義解(718)〕
② 令制で、治部省に属し、家の相承などに関する訴訟などを取り扱った官。大・少があり、それぞれ四人・六人の計一〇名がいた。〔令義解(718)〕
明治二年(一八六九)七月八日に置かれた刑部省の職員。訴訟を糾問することをつかさどり、大・中・少の三等があった。同四年、刑部省を廃し司法省が置かれたのでその職員となる。同八年五月に廃止。〔明治職官沿革表(1886‐94)〕

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デジタル大辞泉 「解部」の意味・読み・例文・類語

とき‐べ【解部】

律令制で、治部省じぶしょうに属し、姓氏相続に関する訴訟の裁判をつかさどった官。
律令制で、刑部省ぎょうぶしょうに属し、被疑者の糾問きゅうもんをつかさどった官。

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改訂新版 世界大百科事典 「解部」の意味・わかりやすい解説

解部 (ときべ)

日本古代の訴訟の事実審理に当たった職員。持統朝に100人置かれたことがみえ,令制では,刑部省に大中少合わせて60人,治部省に大少合わせて10人配属され,刑部省解部は被疑者の糾問に当たり,治部省解部は譜第に関し争訟があったとき,審問に当たった。刑部省解部は808年(大同3)に廃止され,治部省解部は799年(延暦18)に4名の定員削減が行われている。明治に入って置かれた刑部省にも大中少からなる三等の解部が置かれ,被疑者の糾問に当たった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「解部」の意味・わかりやすい解説

解部
ときべ

(1) 令制の治部省の職員。家の相承のことに関する訴訟などを扱った。4名の大解部と6名の少解部がその任にあたった。 (2) 令制の刑部省の職員。犯罪容疑者の取調べを行なった。大解部 10名,中解部 20名,少解部 30名の計 60名がその任にあたった。 (3) 明治初期,刑部省,司法省におかれた職員の一つ。明治2 (1869) 年7月刑部省が設置され,大・中・少の解部がおかれて,争訟を問い窮めることを司った。同5年1月には大・権大・中・権中・少・権少の解部に組織化され,同年8月の「司法職務定制」では,各裁判所に出張し,聴訟・断獄を分掌するとともに,各区裁判所の長となると定められた。 1875年5月4日廃止。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「解部」の意味・わかりやすい解説

解部
ときべ

古代、争訟の糾問・罪状審査にあたった下級官人。690年(持統天皇4)刑部省(ぎょうぶしょう)に100人配置。養老令職員令(しきいんりょう)では刑部省に大・中・少の解部60人配属、808年(大同3)に廃止された。治部省(じぶしょう)には大・少合わせて10人配属、譜第(ふだい)の争訟の審査を担当したが、799年(延暦18)に大・少4人の定員が削減された。明治政府刑部省にも大・中・少の解部があった。中国や朝鮮3国の制度にも起源を見いだせないし、『筑後国風土記』逸文には筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の墳墓の石人(せきじん)の一つを解部としていることからも日本独特のものと考えられる。

[門脇禎二]

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