詫磨能秀(読み)たくま・よしひで

朝日日本歴史人物事典 「詫磨能秀」の解説

詫磨能秀

没年:弘長3(1263)
生年:建久9(1198)
鎌倉初期の武士大友能直次男。母は高山重範の娘(風早禅尼深妙)。詫磨氏始祖貞応2(1223)年父より肥後国神蔵庄地頭下司職,飽田郷内所領所職,鹿子木東庄内所領所職を譲られ,また母より延応2(1240)年に豊後国大野庄内志賀村半分地頭職を,さらに建長5(1253)年に相模国大友庄内名田在家を譲られている。そのほか建長3年には鎌倉山王堂谷地を将軍家下文により拝領している。これらの所領所職は弘長2(1262)年に長男時秀,次男直秀に配分されている。<参考文献>「詫摩文書」(『熊本県史料』5巻)

(瀬野精一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「詫磨能秀」の解説

詫磨能秀 たくま-よしひで

1198-1263 鎌倉時代の武士。
建久9年生まれ。大友能直(よしなお)の次男。貞応(じょうおう)3年父より肥後(熊本県)託麻郡神蔵荘(かみくらのしょう),玉名郡大野別符内尾崎村,飽田郡鹿子木荘などの地頭職を,また延応2年母の深妙より豊後(ぶんご)(大分県)大野荘志賀村の北方地頭職をついだ。詫磨(のち詫摩)氏の祖。弘長(こうちょう)3年死去。66歳。通称は詫磨別当,大夫五郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の詫磨能秀の言及

【神蔵荘】より

…在地領主に宗形氏綱とその沽券(こけん)を受けた橘宗頼の名が見えるが,1199年(正治1)当時には関東補任の中原親能が下司,宗頼は下司代となっていた。1209年(承元3)親能の猶子大友能直が地頭下司職に補され,その子詫磨能秀が相続,以来詫磨氏が分割知行した。1337年(延元2∥建武4)最勝光院執務職とともに神蔵荘領家職は東寺に付けられたが,鎌倉末には年貢上納は半減しており,南北朝期には荘園としての実体は失われた。…

【詫磨氏】より

…中世肥後の武家。志賀,田原などとならぶ大友氏の有力庶家で,大友氏初代能直の次男能秀にはじまり,歴代詫磨別当と称する。能秀は能直から譲られた託麻郡の神蔵荘を本拠とし,その地頭下司職および隣接する飽田郡の鹿子木東荘の地頭下司職を領し,管内の名主層を従えていった。その子時秀は弟顕秀とともに蒙古合戦に参戦,その功により肥前国神崎荘内の一部地頭職,筑前国志登社,肥後国合志郡村吉等の地頭職を得た。次の頼秀は白川津本司職をも得て,いよいよ肥後中央部の有力勢力となっていった。…

【避文】より

…これは10世紀後半の事件である。下って鎌倉時代の中ごろ,御家人詫磨能秀と大友時景は母堂の尼深妙から相模国大友庄内名田在家等を譲られたので安堵下文を幕府に申請したところ,一族の大友泰直が異議を申し立てたため訴訟となり,建長5年(1253)7月30日能秀と時景に対し安堵の下知状が下されたが,それには〈而泰直去年十二月廿四日令出避文畢〉と記されている。【平山 行三】。…

※「詫磨能秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android