誓願寺(読み)せいがんじ

精選版 日本国語大辞典 「誓願寺」の意味・読み・例文・類語

せいがん‐じ セイグヮン‥【誓願寺】

[一] 京都市中京区新京極桜之町にある浄土宗西山深草派の総本山。山号は深草山。天智天皇の勅願所としての恵隠(えおん)が奈良に創建、三論宗をとなえた。のち現在地に移転。二一代蔵俊が法然を中興の祖に迎えて現宗に改めた。天正一九年(一五九一)現在地に移転。
[二] 謡曲。三番目物。各流。作者未詳。一遍上人は熊野権現の霊夢によって、六〇万人決定(けつじょう)往生の御札を広めるために京都誓願寺を訪れる。すると里の女が現われ、誓願寺の額を六字の名号に書きかえてくれるように頼み、自分は和泉式部の亡霊であると告げて消える。上人が額を改めて仏前に移すと、式部の亡霊が歌舞の菩薩(ぼさつ)となって現われ、舞を舞う。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「誓願寺」の意味・読み・例文・類語

せいがん‐じ〔セイグワン‐〕【誓願寺】

京都市中京区にある浄土宗西山深草派の総本山。天智天皇の勅願により三論宗の寺として奈良に創建。開山は恵隠。平安遷都後は深草に移り、21世の蔵俊が法然に帰依して浄土宗に改めた。天正19年(1591)豊臣秀吉の命で現在地に移転。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「誓願寺」の解説

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]中京区桜之町

六角ろつかく通の南、新京極しんきようごく通の東側に西面して位置する。深草山と号し、浄土宗西山深草派の総本山。円光大師二十五霊場の一。本尊の阿弥陀如来は京洛六阿弥陀仏の一。現世・来世の二世にかけて抜苦与楽の霊仏として信仰される。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔開創・移転〕

開創について洛陽誓願寺縁起(続群書類従)は、天智天皇四年(六六五)天皇生身の阿弥陀如来を拝せんことを願って念仏を唱え、霊感により大和の良匠賢問子・芥子国の父子に勅命を下し、丈六の阿弥陀仏坐像を造立。奈良に念仏閣を建て阿弥陀像を安置したという。延暦一三年(七九四)平安遷都に伴い山城国乙訓おとくに郡に移し、中世さらに上京一条通小川おがわ(現中京区中之町辺り)に移転(山州名跡志・山城名跡巡行志)。一説に奈良より相楽さがらか郡に移り、平安遷都ののちに紀伊きい深草ふかくさ(現京都市伏見区)に移転、その後、洛中上京の現在の元誓願寺もとせいがんじ町の地に寺地が移ったともいう(雍州府志)。洛陽誓願寺縁起によれば移転後、醍醐天皇が浄土三部経を当寺に納め、源信は当寺に五〇余日参籠して不断念仏を修し、一巻の誓願講式を編み、以来当寺では毎月三日・五日には本尊の前で式を行うという。また清少納言や和泉式部も当寺に参詣、往生を願って念仏し成就したという。「元亨釈書」によると、上東門院が父藤原道長のために七日間参籠し、浄土三部経を書写している。誓願寺がいつ上京の地に移転したかは不明であるが、承元三年(一二〇九)四月九日、「誓願寺焼亡」と同時に当時上京にあった行願ぎようがん寺も炎上しているから(百錬抄)、中昔京師地図の記す下小川西、今小路いまこうじ付近の地であったことは確かである。なおこの焼亡後、伊勢権守為家が当寺の多聞天を崇敬し、私財で堂宇を再興した。

〔改宗〕

法然が当寺に参籠したとき二一世蔵俊は法然に帰依して浄土宗に改め、法然を二二世中興の祖とする(山州名跡志)。一説には西山上人四世深草円空立信の孫弟良玉より浄土宗に改宗したとも伝える(山城名勝志)。嘉禎二年(一二三六)九条道家が当寺で七日間の仏事を営み、善証空が観経曼陀羅の講説をなしたと伝える。その門人の深草真宗しんじゆう(現伏見区)の円空立信が当寺を兼帯してより、西山深草派の本寺とし、その法嗣顕意によって念仏弘通の一大道場となった(深草真宗院円空伝・山州名跡志)

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]浅井町内保

湯次山と号し、浄土真宗本願寺派。湖北十ヵ寺の一つ。寺伝によれば、奈良時代に定恵が開創し、のち天台宗に属し、弓月寺と号したという。大安寺三綱紀(東浅井郡志)には「弓月寺(中略)湯次社神宮寺也」とある。一説に浅井十二ヵ寺の一つ蓮乗寺の後身ともいう(同書)。天保下寺帳によれば、永正三年(一五〇六)に了願による草創と伝え、同年一一月二八日に寺号も許されたとあるが、同帳には「文明代ニ慶信」「文禄代ニ明乗」という住僧のいた旨の注記がある。慶信は文明一四年(一四八二)二月二〇日に蓮如から親鸞絵像を下付されており、この頃には真宗寺院化していたことが知られる。絵像の裏書には「江州浅井郡湯次内保誓願寺常什」とある(東浅井郡志)。延徳元年(一四八九)一一月二二日の朝の斎に福田ふくでん(現滋賀県近江町)とともに姿をみせる誓願寺も当寺のことと推定される(第八祖御物語空善聞書)。寺伝で当寺七代といわれる慶信以降は、慶了が明応七年(一四九八)一一月二八日に実如より蓮如絵像を、了明が天文六年(一五三七)五月一一日に証如より実如絵像を、明乗が文禄三年(一五九四)六月二一日に顕如絵像を下付されている(以上、当寺蔵)

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]西区今津

毘沙門びしやもん山の南西麓にある。登志山と号し、真言宗御室派。本尊は毘沙門天。かつては阿弥陀如来が本尊だったとされる(続風土記附録)。安元元年(一一七五)一〇月二五日の誓願寺創建縁起(誓願寺文書/福岡県史資料一〇、以下とくに断らない場合は同文書)によれば、当寺は嘉応二年(一一七〇)五月一日に仲原太子が発願し、同宿の僧寛智が建立した寺で、承安五年(一一七五)冬至の日(一一月二日)に備前国にいた栄西を招いて堂供養が行われた。この時に栄西によって先の創建縁起が記されたという(千光祖師年譜)。安元元年閏九月二三日の宮庁下文(平七)にみえる寛智(円城房観智)の申請によって仏餉田五町を宛行われた「壱堂」が、当寺である(嘉禄二年九月一五日「仁和寺御室庁下文」鎌五)

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]弘前市新町

弘前城跡西方、あら町の北部に位置。光明山無量院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀仏。もと磐城国専称せんしよう(現福島県いわき市)末寺。津軽四方丈の一。寺禄三〇石。

蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によれば、慶長一九年(一六一四)の創立とあり、開山は円蓮社良貞、開基は不詳。「津軽一統志」は慶長元年の創立とし、開山を貞昌ていしよう寺の開山円蓮社岌禎とし、二代藩主津軽信枚が誓願寺(現京都市中京区)の本尊に似せた大仏を造らせ、元和元年(一六一五)仮屋に安置したとあり、寛永元年(一六二四)に大堂の造営を始め、同六年に入仏供養が行われたとある。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]山形市八日町二丁目

江戸時代城下町であった三日みつか町にあり、東進してきた羽州街道が門前で北に向かう。無量山と号し、真言宗智山派。本尊大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来。寺伝によれば、延文元年(一三五六)山形に入部した斯波(最上)兼頼が行基作の毘沙門天を安置したことに始まり、応永元年(一三九四)兼頼の子直家が尊栄に帰依し、中野なかのに堂宇を建立して誓願寺と号したという。慶長元年(一五九六)最上義光は当寺の尊養に帰依し、寺地を現在地に移して五間に一三間の堂宇を建立、寺領二四石の黒印を付して阿弥陀如来を寄進したと伝える。当時三日町は八日ようか町のうちで、上八日町とよばれていた。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]岡崎市梅園町

うら(現花崗町)の北側丘陵の中腹に立地。浄土宗西山深草派の寺で諏訪山泰翁院と号した。本尊阿弥陀如来。「誓願寺由緒記」によると、開山は京都の本山誓願寺五一世、魚町大林だいりん寺四世泰翁慶岳で、永禄九年(一五六六)徳川家康の改姓や官位について朝廷に斡旋したので、家康は泰翁のために一寺建立したという。泰翁は誓願寺在任中に公家たちと交流があった。山科言継の受戒の師は、泰翁の師大林寺三世の照翁で、言継は弘治三年(一五五七)三月一三日に駿府すんぷからの帰途、岡崎へ泊まった際大林寺に照翁を訪ねている。「言継卿記」にはしばしば泰翁と弟子慶源の名がみられる。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]平戸市戸石川町

戸石川といしがわ町の北東部にある。五却山福智院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。天文一一年(一五四二)石見国の宝誉良祐が開山となって創建されたと伝える(浄土宗寺院由緒書)。のち松浦家当主の女の縁者の菩提寺としても知られる。また戦国期北松浦きたまつら一帯に急速に広まったキリスト教に対抗するために創立された浄土宗の中本山であったとされ(平戸市史)、京都知恩院末で、江戸時代はたか(現鷹島町)西方さいほう寺、早岐はいき(現佐世保市)大念だいねん寺、志佐しさ(現松浦市)無量むりよう寺、おお(現大島村)称名しようみよう院、生月いきつき(現生月町)法善ほうぜん寺、多久たく島の立願りゆうがん寺、河内の安養かわちのあんよう寺など一二ヵ寺の末寺があった(蓮門精舎旧詞)

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]静岡市丸子

丸子まりこ大鈩おおだたらにある臨済宗妙心寺派寺院。大鑪山と号し、本尊は阿弥陀如来。源頼朝の建立と伝えられる(駿河記)中興開山は元亀元年(一五七〇)没の文益大圭で(同書)、中興の際に臨済宗となったという(修訂駿河国新風土記)。文明一七年(一四八五)九月二三日、東下する禅僧万里集九は、丸子の「大鑪山誓願精舎」に一泊している(梅花無尽蔵)

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]甲府市東光寺一丁目

来迎らいごう寺の北にある。大宮山一行院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。浄土宗甲府五ヵ寺の一つ。大永元年(一五二一)武田信虎の帰依した忠蓮社弁誉により古府中こふちゆうに創建され(蓮門精舎旧詞)、文禄年間(一五九二―九六)上一条かみいちじよう町と板垣いたがき村の間の現在地に移転したという。旧寺地は下横沢しもよこざわ町にあったとされる。近世には境内除地五千四〇坪、一〇間四方の本堂、方丈・庫裏・総門があり、寮舎は一行院・南慶院などの七(甲斐国志)

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]熱田区旗屋町

妙光山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。熱田神宮の西にある。大永五年(一五二五)日秀善光尼の建立であるが、慶長五年(一六〇〇)隣火にかかり伽藍・什物すべて焼失した。同一二年、豊臣秀頼の命によって再建され、翌年、前田利家の室が鐘楼を再建した。元和元年(一六一五)松平忠吉が東南の築地を新築し、寛永五年(一六二八)徳川義直より神戸ごうど村に屋敷地三畝一〇歩を与えられ、同年、阿弥陀堂を重葺し、方丈・書院を建立した(「名古屋市史」社寺編)。愛知郡中野なかの(現中川区)に一〇〇石の寺領があった。

住持は代々紫衣勅許で、熱田上人と称し、開山以来、代々朝廷に参内したが、四世照月善光の時、隔年に参内することになり、寛永二〇年、東福門院より京都御幸町通に屋敷地を与えられて、在京中の宿坊を建てた。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]木津町木津 宮ノ堀

妙光山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。もとは大寺であったというが創建はつまびらかでない。ただ「山州名跡志」に「伝云、当寺ハ聖武帝ノ御願ニシテ、持戒ノ尼ヲ令棲玉ヘリト云云、但、是即光明子ノ御願、日本一州一寺ノ国分尼寺ナル歟、可後勘」と記す。嘉吉元年(一四四一)の「興福寺官務牒疏」には「誓願寺、在同郡(相楽郡)出水郷、僧房三宇、光明皇后御願、本尊弥陀仏」とあり、室町時代には奈良興福寺の末寺であった。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]鯖江市上河端町 新出

新出しんでの北端にあり、帆山と号する。真宗三門徒派であったが、現在は単立。本尊阿弥陀如来。初め帆山ほやま(現福井県武生市)にあり、応永九年(一四〇二)当地に移り、同一二年寺号を得たと伝え、以来「新出の誓願寺」とよばれた。開基導願のとき天台宗を改めて真宗に帰したという。「中野物語」によれば、この導願は大町専修おおまちせんしゆう(現福井市)の開基如導の随一の弟子で、三門徒派本山中野専照なかのせんしよう(現同市)の開基浄一はこの導願の子と伝える。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]篠山市魚屋町

魚屋うおや町の西部にある。浄土宗西山深草派。清浄山と号する。本尊の阿弥陀如来は嶽の福泉ふくせん寺の法道の手になるという。天正年間(一五七三―九二)一三代将軍足利義輝の遺児という天誉覚山が開山で、波多野秀治の重臣渋谷氏・喜多川氏が開基であったと伝える。慶長一五年(一六一〇)八上やかみ城下から移され、文政年間(一八一八―三〇)境内に秋葉神社が祀られる。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]倉敷市阿知二丁目

鶴形つるがた山西麓にあり、仏光山成親院と号する。浄土宗。本尊は阿弥陀如来。応永三一年(一四二四)の開創(一説に文明二年)、元和年間(一六一五―二四)の中興と伝える。なお、境内観音堂の本尊十一面観音は治承年間(一一七七―八一)藤原成親が備前に配流の際、その持仏を寄進したもので、成親院の院号もこれによるとの伝えもあるが(文化一一年吉田孝則撰「縁起」寺蔵)、この院号は元禄一〇年(一六九七)の寺社帳以前にはみえない。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]岡崎市矢作町 馬場

東海道矢作橋より西の街道北側沿いの低地にある。時宗、慶念山と号し本尊は阿弥陀如来。「三河堤」などによれば、寺域付近に池が多く住僧慶念が溺死した。長徳三年(九九七)恵心僧都が冥福を祈り、池を埋め堂を建て千体地蔵菩薩を作り安置し、慶念山と号したという。また山門前の宝暦八年(一七五八)矢作十王じゆうおう堂誠誉教円法阿の代の大墓碑によれば、寿永三年(一一八四)三月矢作の里兼高長者の女浄瑠璃姫が源義経との悲恋の末、菅生すごう川に入水した。長者は死体を埋葬し十王堂に二人の木像と義経所持の薄墨の名笛・姫の鏡を地蔵尊とともに安置したとある。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]秋田市旭南一丁目

てら町の南端にある。浄土宗、正覚山と号し、本尊は阿弥陀如来。

佐竹家中総系図に「正覚山誓願寺、義宣公秋田御下向之以後、久保田城内ニ阿弥陀堂御建立、文冏上人開眼入仏被仰付、別当職ニ被成、寺領五十石被下」とみえる。覚蓮社良正文冏は当時土崎湊つちざきみなとにあったが、藩主佐竹義宣は江戸で播随院上人のすすめで文冏を知り、本丸阿弥陀堂の別当に迎え、また慶長一〇年(一六〇五)寺町に寺地を与え創建させたという。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]緑区鳴海町 根古屋

来迎山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、天正元年(一五七三)僧俊空を開基とし、創建の願主は勝運院安西善心居士。寺内は五畝が備前検地の除地(徇行記)。境内に芭蕉の供養塔があり、元禄七年(一六九四)一〇月、芭蕉の死後一ヵ月に立てられた。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]小浜市大宮

八幡神社の北側にある。無量山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと金高山と号した。永享元年(一四二九)僧頼順によって創建されたといわれ、寺地は若狭守護一色義貫の寄進と伝える(若狭郡県志)。永禄一一年(一五六八)越前朝倉氏の小浜侵攻のときには、若狭守護武田氏被官小原帯刀・野田甚太夫らが当寺前で防戦した(拾椎雑話)

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]刈谷市築地町 東屋敷

台地の端に位置する。寺の前を小山渡おやまわたしという。大野小林山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もと天台宗であったが、元文三年(一七三八)二月知多郡大野光明おおのこうみよう(現常滑市)より信説が入寺し、真宗に転じた。佐々木市兵衛の遺品を所蔵する。

誓願寺
せいがんじ

[現在地名]安城市姫小川町 姫

ひめの北端、荒井あらいとの境に位置する。小松山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、孝徳天皇の皇女が故あってこの地にとどまり、皇女死去ののち、従者が相図って一寺を建て、僧義峯を招き開基とし蓮華寺としたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「誓願寺」の意味・わかりやすい解説

誓願寺 (せいがんじ)

京都市中京区桜之町にある浄土宗西山深草派の総本山。深草山と号す。もと奈良にあって恵隠が創建し,三論宗を奉じていたが,奈良より山城相楽郡に移り,794年(延暦13)平安京遷都ののち山城の紀伊郡深草に移され,さらに元誓願寺町に転じたという(一説に,平安遷都に伴い山城国乙訓郡に移り,中世さらに上京一条小川に移転したともいう)。21代の住持蔵俊は法相宗を学んだが,浄土宗の祖法然の学解に触れて同調者となったと伝える。法然の弟子で西山派の祖証空の門下に入った深草真宗院の円空立信が当寺を兼帯してより西山深草派の本寺となり,その弟子顕意道教が誓願寺に住んでから念仏弘通の一大道場になったとされ,62代の光空看瑞まで,真宗院と兼帯する住持が多かった。応仁の乱の兵火にかかり,1477年(文明9)再興されたが,1509年(永正6),36年(天文5),73年(天正1)とたびたび炎上し,91年豊臣秀吉の側室松丸殿(京極竜子)の発願によって現在地に移り,本堂,三重塔をはじめ堂舎が再興され,やがて数坊の子院も建てられた。しかし京洛の中心にあったため,1788年(天明8)をはじめ,江戸末期だけでも1845年(弘化2),64年(元治1)に火災にあい,本尊まで焼失したこともあった。72年(明治5)には東京遷都により衰微した京都の産業復興のため新京極がつくられ,寺地がせばめられた。現在の本堂は1964年に建てられたものである。毘沙門天立像,絹本著色の《誓願寺縁起》が重要文化財に指定され,墓地には医者の山脇東洋や《醒睡笑》の著者で当寺55世安楽庵策伝の墓などがある。なお,一遍が当寺に参詣して諸人に名号の符を与え,和泉式部の霊を済度したという伝えは,謡曲《誓願寺》でも名高い。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「誓願寺」の意味・わかりやすい解説

誓願寺
せいがんじ

京都市中京(なかぎょう)区新京極(しんきょうごく)桜之町にある浄土宗西山深草(せいざんふかくさ)派の総本山。天智(てんじ)天皇の御願で三論宗の恵隠(えおん)が奈良に創建したのに始まる。平安遷都後深草に移り、さらに上京区元誓願寺町に移った。三論宗21世の蔵俊(ぞうしゅん)のとき法然上人(ほうねんしょうにん)源空(げんくう)に帰依(きえ)して浄土宗に改宗。証空(しょうくう)門下の立信(りゅうしん)が住んで基礎を築き、のち西山深草派の本山となる。応仁(おうにん)年間(1467~69)兵火にかかったが、1477年(文明9)十穀(じっこく)が再興を図り、一条兼良(かねら)らの後援もあって同年上棟(じょうとう)。その後四度の火災を経て、1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の命で現地に移し、側室松丸殿および京極氏が諸堂を建立した。その後もしばしば炎上し、明治以降はとくに繁華街であるため寺域が狭められた。寺宝には和泉式部(いずみしきぶ)の供養(くよう)塔や木造毘沙門天(びしゃもんてん)立像(国指定重要文化財)、絹本着色『誓願寺縁起』三幅(同)、『涅槃(ねはん)像』一幅などがある。円光大師(法然)二十五霊場の一つとなっている。

[玉山成元]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「誓願寺」の意味・わかりやすい解説

誓願寺【せいがんじ】

京都市中京(なかぎょう)区にある浄土宗西山(せいざん)深草派の総本山。奈良時代創建,三論(さんろん)宗であったが,鎌倉時代に深草真宗院の円空立信(えんくうりゅうしん)(西山上人証空(しょうくう)門下)が兼帯してより西山深草派の本寺になり,念仏弘通の一大道場になった。応仁の兵火をはじめ数度の火災に遭い,1591年豊臣秀吉の側室松丸(まつまる)殿(京極竜子(きょうごくりゅうし))の発願で現在地に再興。毘沙門天立像,絹本着色《誓願寺縁起》は重要文化財。
→関連項目安楽庵策伝

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「誓願寺」の意味・わかりやすい解説

誓願寺
せいがんじ

福岡市西区にある真言宗御室派の寺。大檀那大法師寛智により建立。もとは 42の子院があったといわれ,ただ1つ残った大泉坊が今日の誓願寺である。仁安3 (1168) 年宋に渡り,安元2 (76) 年に帰朝した栄西が,宋版大蔵経の渡来を筑前今津で待っている間に堂塔が建立され,開堂法要の導師をつとめたという。治承2 (78) 年7月 15日の盂蘭盆会に際し,栄西が法華一品経書写勧縁の由来を書いた『誓願寺盂蘭盆縁起』1巻,それに付属し誓願寺建立の事情を詳しく記した栄西筆『誓願寺建立縁起』は国宝。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「誓願寺」の解説

誓願寺

青森県弘前市にある浄土宗の寺院。江戸時代中期に建てられた山門は国指定重要文化財。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android