谷村(読み)やむら

精選版 日本国語大辞典 「谷村」の意味・読み・例文・類語

やむら【谷村】

山梨県都留(つる)市の中心地区。旧谷村町で、古くから郡内(ぐんない)地方の政治・経済の中心。屋村。→都留(二)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「谷村」の解説

谷村
たにむら

[現在地名]宇ノ気町谷

笠島かさしま村の南、谷間に位置。中世は金津かなつ庄の内。享禄(一五二八―三二)頃と推定される七月二〇日の金津庄村々納銭注文案(賀茂別雷神社文書、以下同文書は省略)では、公用銭六五貫二五七文のうち一〇貫四五四文が「谷村納」とされる。延徳三年(一四九一)九月に固定化したものを再編した天文五年(一五三六)一一月の金津庄谷村名別公事銭等納帳によれば、谷宮・五郎丸・袈裟丸けさまる・同丸・真行・介真・安法師・安丸(案丸)の八つの本名と弥石亀田みきかめだ宮大般若免および友房・東光・清房寺・利縄の脇名からなる。安法師名は内高松うちたかまつ(現高松町)の「千代丸彦右衛門拘」を経て「石黒拘」となっており、名主職の移動がうかがえる。また安丸名には「庶子半名」の記載があり、惣領分と同種の公用銭が課せられている。天文七―八年分の谷村算用状案では安法師名は消え、案丸名は惣領と庶子分が別筆となり、高・米方とも庶子分のほうが多い。前掲公事銭等納帳では谷宮名を除く本名にはいずれも炭・柿・畳が課せられていた。

谷村
あしのやむら

[現在地名]幸田町芦谷

村域東部は山地で、集落は西部台地に集中する。東は宝飯ほい柏原かしわばら(現蒲郡市)と山で、西は承応元年(一六五二)江尻えじり川に堤防を築いて、川の中央で幡豆はず六栗むつぐり村と接する。南は山と一部耕地で深溝ふこうず村、北は岩堀いわぼり村・横落よこおち村・おぎ村と接する。深溝道が通り桑谷くわがい道と交差する。

康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「五百五十五文 天花寺領 三河国芦谷郷段銭」とある。また寛正六年(一四六五)の「親元日記」の額田郡牢人一揆の項に「芦谷兄弟」の名がみえ、「今川記」に芦谷助三郎・大場長満寺などが駿河国丸子まるこ今川義忠に討取られた件がある。後裔として永禄四年(一五六一)に酒井正親付属に芦野谷源七某が出ている(寛政重修諸家譜)

近世の当村地頭の内藤家の文書によると、碧海郡上野うえの(現豊田市)生れの内藤義清の三男勝重が「享禄頃芦谷移荒地開墾」の記事がある。

谷村
たにむら

[現在地名]西京区松尾まつお井戸いど町・うえやま町・北松尾山きたまつおやま町・じんたに町・鈴川すずかわ町・大利だいり町・ひがしくち町・万石まんごく町・南松尾山みなみまつおやま〉・松尾谷松尾山まつおだにまつおやま

村域は西芳寺さいほうじ川下流南岸部と、上流一帯の山間部及び保津川支流かもめ谷の東岸。北は上山田かみやまだ松室まつむろ、東は上桂かみかつら、西と南は下山田しもやまだの各村に接する。西芳寺付近を境に平野部と山間部にひょうたん型に分れている。

西芳寺川流域をたにと称したに始まり、長寛二年(一一六四)の安養寺領目録(東文書)には「山田郷谷村」が記される。中世には室町幕府が松尾社の境内社地の農民を「谷山田名主沙汰人」と記しており(松尾神社文書)、文亀元年(一五〇一)の売券(堀田文書)には「谷郷スワ河」とある。谷郷は永正一四年(一五一七)四月五日の次郎衛門田売券ほかの革島文書にもみられるが、「谷の堂」の名で広く知られた最福さいふく寺が近世の谷村に北接する松室村の地にあったことからも、中世の谷郷は近世の谷村より広い地域をさしたものであるといえよう。

谷村
やつむら

[現在地名]習志野市谷津やつ一―七丁目・津田沼つだぬま二丁目・同四丁目・同七丁目・谷津町

久々田くぐた村の北西にあり、南西方の江戸湾沿いに房総往還が通る。北西部には庄司しようじヶ池があり、その北方には東金御成とうがねおなり街道が通る。谷つ村・谷津村などともみえ、「神野山日記」には「谷津村に至れば、左右家つゞきて、久々田村までの間は海面見やらず」とある。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に記す「屋戸崎村」が谷村・鷺沼さぎぬま村のことと考えられ、当時旗本大久保領であった。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では谷村として高一六五石余で、同じく大久保領で幕末まで変わらない。元禄郷帳・天保郷帳でも谷村で、天保郷帳では高二七三石余。旧高旧領取調帳では谷津とし、大久保領二〇一石余のほかは幕府領九二石余。

谷村
たにむら

[現在地名]浦川原村谷

保倉ほくら川の支流、高谷たかたに川に沿い、川が刻んだV字形の谷間に立地。北西は真光寺しんこうじ村、南は高谷たかたに(現牧村)、西は峠を越え片町かたまち(現牧村)、東は芹田せりだ(現安塚町)。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所蔵田清左衛門扱直嶺分谷村 下」とあり、本納一七石五升・縄高三二石一斗六升六合、家八軒・三三人。保倉川支流(高谷川か)の上流右岸にあり、対岸片町村へ道が通じ、支流左岸沿いの道と合流する。近世初頭の本願寺教如書状(専敬寺文書)によれば、当村の八日講中が小黒こぐろ(現安塚町)専敬せんきよう寺の取次で、ほか一〇講中とともに銀子一〇〇目を懇志として教如に納めている。

谷村
たにむら

[現在地名]挟間町谷

大分川の右岸、田野小野たのおの村の南西にある。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で、初め谷村手永、享和三年(一八〇三)以降野津原手永に属した。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高二九四石余。正保郷帳によれば田高一三五石余・畑高一五九石余、阿南あなん庄に所属。日損所と注記される。元禄一三年(一七〇〇)の熊本領豊後国之内郷帳(臼杵藩政史料)では高二九四石余。「肥後国誌」によると、当村の高一八〇石余、白滝村・下中尾村・中江村・ホキノ上村・畑中はたけなか村などの小村があった。

谷村
たにむら

[現在地名]右京区常盤ときわいち町・御池おいけ町・かし町・神田かんだ町・出口でぐち町・古御所ふるごしよ町・森町もりまち山下やました町〉

双ヶ丘ならびがおかの西麓。東は双ヶ丘を挟んで池上いけがみ法金剛院ほうこんごういん、西は常盤、北は福王子ふくおうじの各村に接する。南は洛中と嵯峨を結ぶ嵯峨街道。

古くよりの仁和寺領。「宣胤卿記」永正一四年(一五一七)八月二〇日条に「中納言行谷、今日谷祭也」とあり、中納言中御門宣秀が当地の祭に行ったことを記す。「長享年後畿内兵乱記」に「天文三年六月二十九日、義晴相公至坂本進発、七月二十日、木沢左京三好甚五郎西山谷山城囲之、西芳寺地蔵院最勝寺等炎上云々」とあり、天文三年(一五三四)この地の城が木沢長政によって攻められたことを記す。

谷村
かずらたにむら

[現在地名]佐治村葛谷

現在の佐治村東端、佐治川下流部北岸にあり、集落は同川と山に挟まれたわずかな平地にある。「因幡志」に「葛原村」「因幡民談記」に「桂谷村」と記されるが、正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)に葛谷村とみえる。枝村に坂野があり、北に枝状に延びる谷は北西の津無つなし村に通じる(因幡志)。拝領高七一石余、本免五ツ二分。寛政一一年(一七九九)の智頭郡下構村々高物成等覚(竹本家文書)では朱高七七石余に対して今高一二九石余、物成六三石余、柿役二石四斗余が課されていた。

谷村
たにむら

[現在地名]国府町谷

糸谷いとたに村の南に位置する。ふくろ川を挟んで南は岡益おかます村。法美ほうみ往来が通り、当地で同往来から南の私都きさいち(現郡家町)へ向かう道が分岐する。「因幡志」によれば茶屋が置かれていたという。拝領高は七一石余、本免は七ツ三分。「因幡志」によれば家数二四。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高七八石余(うち畑高六石余)で、永荒を引き年開一一石余を加えた都合高は九一石余。物成高は六五石余で、宇倍野山役米は二斗余、藪役銀は六匁二分余。

谷村
たにむら

[現在地名]姫路市勝原区朝日谷かつはらくあさひだに

下太田しもおおた村の南に位置し、東は大津茂おおつも川を境によろ村、西は糸井いとい(現太子町)。北部に朝日山があり、揖東いつとう郡に属する。朝谷あさだに(旧高旧領取調帳)・朝日谷村(寛政一〇年「積登せ菜種等につき請書」八瀬家文書)とも記された。長享元年(一四八七)と推定される福井庄村名注文(吉川家文書)に福井庄二八ヵ村の一として谷村とみえる。天正一五年(一五八七)九月二四日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)によると、木下家定は谷村三五〇石などを宛行われている。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は西脇にしわき村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高五〇八石余、高四二〇石余。

谷村
きびたにむら

[現在地名]貝塚市秬谷

水間みずま村からおお(秬谷川)をさかのぼった和泉山脈の山あいの村。南郡に属する。集落の北、字金福寺こんぷくじ根福寺こんぷくじ城跡がある。天文六年(一五三七)一二月一三日の松浦肥前守田地寄進状(井手家文書)に後世追記された注記によると、天文四年に木積こつみ蛇谷じやたに城主松浦肥前守が野田山のだやま城を築城したが、のちに紀州根来ねごろ寺の領するところとなり、根福寺城と改称、天正一三年(一五八五)から豊臣秀吉の支配となったという。

谷村
たにむら

[現在地名]勝山市北谷きただに町谷

たき谷・から谷・胡麻堂ごまんどう谷・おいのみず谷・奥河内おくのこうち谷の結節点に位置し、勝山城下から谷峠を越えて加賀牛首うしくび(現石川県石川郡白峰村)に至る交通の要地。白山禅定道の道筋で、不動ふどう滝があり、傍らに「慈明権僧都 天文二十年辛亥七月吉日」と銘のある不動明王石像を祀る。「越前地理指南」に「白山禅定の者此所にて垢離す」と記す。七山家ななやまがの一村。村人は一向一揆に参加したと伝え、谷城跡がある。

谷村
たにむら

[現在地名]古川町谷

みや川左岸、その支流殿との川の合流点にあり、宮川対岸は野口のぐち村、南東はおお村、南西は信包のぶか村、北の本堂ほんどう山を越えると小無雁こむかり(現河合村)。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では、小鷹利こたかり郷に属し、高三〇九石。元禄検地反歩帳では高二四四石余、田一七町五反余・畑一一町九反余。「飛騨国中案内」では免五割一分四厘余、家数五四(うち寺一・百姓四七・地借二)。天明八年(一七八八)の村明細帳では安永新田もわずかで、家数五四・人数二〇八。「斐太後風土記」では村域縦九町一六間・横二町五〇間、家数五二・人数二八〇余。おもな産物は桑三千九二〇貫目・麻六〇貫目・楮一〇〇貫目・小繭二五〇貫目・布一二〇反・石灰一千五〇〇貫目・川魚など。

谷村
たにむら

[現在地名]西区今宿町いまじゆくまち・今宿一―三丁目・今宿東いまじゆくひがし一丁目・横浜よこはま一丁目

青木あおき村の西にあり、志摩しま郡に属する。南東は怡土いと上原かみのはる村、南西は女原みようばる村。北は今津いまづ湾に面する。集落は本村である谷と唐津街道の宿駅である今宿からなる(続風土記拾遺)。人家のほとんどは今宿に所在し、一般には今宿村(今宿町)の名が通用した。谷は谷山北麓に位置する。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)、小早川時代の指出前之帳などでは青木村の内。慶長石高帳に村名がみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高は九五九石余。元禄五年(一六九二)には高九七六石余(田圃志)。享保二年(一七一七)時点では村位は中、田五一町九反余・畠一二町余、高九七六石余。

谷村
こしきだにむら

[現在地名]清水町甑谷

在田あいだ村の北、丹生山地の東麓に位置し、東を日野川が流れる。文明一〇年(一四七八)一二月二五日付の「越知山年中行事」(越知神社文書)の「彼公用ノ出口米分」のうちに「八斗コシキ谷」とみえ、享禄二年(一五二九)五月日付の大谷寺所々神領坊領目録(同文書)にも「御神楽料米銭成在所」に「八斗甑谷村」とみえる。

貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、享保五年(一七二〇)鯖江藩領となった。慶長三年(一五九八)七月一八日付の越前国甑谷村御検地帳(甑谷区有文書)によると、分米九〇五石余、田畠五六町一段余。「越前地理指南」は枝村としてまつはなを記す。

谷村
たにむら

[現在地名]丹波町字塩田谷しおただに

塩田谷の中央部に位置し、高屋たかや川支流の曾根そね川南岸に、背後に山を負って集落がある。東は須知しゆうち村、西階にしかい(高岡村)、南は鎌倉かまくら(同上)、西は安井やすい村、北は中台ちゆうだい(現瑞穂町)。亀山藩領。

年号は不明だが、室町時代のものと思われる蜷川家文書断簡に、「丹波山内庄八ケ村 小川殿御料」のうちとして「塩田村 奉公衆之給分」とみえるのは、当村および谷口のもり村、谷奥の安井村付近をさすと考えられる。また「塩田村元末名」なる名があったことが「親元日記別録」政所賦銘引付の文明九年(一四七七)一二月八日条の記事より知られる。

谷村
たにむら

[現在地名]丹波町字豊田とよた

新宮しんぐう村の東にあり、高屋たかや川が村の中央部を北東に流れ川に沿って耕地が広がるが、北部にはやや高い山が、南部には丘陵が続く。集落は川の左岸(北側)山麓部に連なっている。東は坪井つぼい村、南は曾根そね村、西南は紅井くれない村、北は質美しつみ(現瑞穂町)。紅井谷村とも称された(寛政十一年丹波国大絵図)。園部藩領。幕末の家数六〇、人口二六七、牛二〇匹(「口丹波風土記」所引園部藩記録)

明治七年(一八七四)新宮村・紅井村と合併して豊田村になった。

集落の北にある山内やまのうち谷の東西にはそれぞれ三〇〇メートル近い山がある。

谷村
ならだにむら

[現在地名]清見村楢谷

馬瀬まぜ川の源流に位置する村で、郡上ぐじよう方面に向かう道がりゆうヶ峰を越えて中野なかの村から当村に至り、同川に沿って大原おつぱら村に通ずる。楢谷寺の文明一八年(一四八六)蓮如下付の方便法身尊像裏書(吉城郡古川町本光寺蔵)に「美濃国郡上郡奈良谷願主円実」とある。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の川上かわかみ郷に「奈良谷」とみえ、高四四石余。同一八年郷帳でもほぼ同高。元禄検地反歩帳の高三六石余、田四町七反余・畑七町五反余。「飛騨国中案内」によれば免は二割二分五厘、家数三八、うち百姓二五・門屋八・地借三・水呑一・寺一。天明八年(一七八八)の田二二石余・畑三一石余、うち新田高一八石余、反別田六町余・畑一八町余、家数三四、猟師鉄砲三(村明細帳)

谷村
ひえだにむら

[現在地名]甲南町稗谷・希望きぼうおか希望きぼう丘本町おかほんまち

深川ふかわ村の東方に位置。日吉谷とも記す。集落と耕地は野洲やす川支流の稗谷川の開く狭い谷部に所在するが、小さな谷状の土地が無数にある。慶長五年(一六〇〇)幕府領、天和二年(一六八二)水口藩領となる。寛永石高帳では高五一七石余。慶安二年書上では田二九〇石余・畑屋敷五五石余・永荒川欠一七一石余。助郷は勤高五一七石で水口みなくち宿(現水口町)に出役(水口宿文書)。寛政九年(一七九七)宗門改帳では家数六三・人数三二九。慶応四年(一八六八)には家数五九・人数三四〇(以上稗谷共有文書)


たにぐみむら

面積:七三・〇〇平方キロ

郡の東部にあり、南から西にかけては大野町・揖斐川いびがわ町、北西は久瀬くぜ村、北は本巣もとす根尾ねお村、東は同郡本巣町と接する。本巣町境を流れる根尾川沿いに名鉄谷汲線・第三セクター樽見鉄道が通る。谷汲線は長瀬ながせで線路を西に変え、終着の谷汲駅に至る。樽見鉄道は平成元年(一九八九)三月路線を延長、高科たかしな駅ができた。村のほぼ中央にある妙法みようほうヶ岳を挟んで東に谷汲山華厳けごん寺、西に両界山横蔵よこくら寺があり、両寺とも延暦年間(七八二―八〇六)の創建とされる。近世は現村域に一五村あり(天保郷帳)、すべて大野郡に属し、大垣藩領・加納藩領・野村藩領などとして推移。

谷村
おしだにむら

[現在地名]椎葉村松尾まつお 唖谷

榎峠えのきとうげ村の北東に位置する。「にくみだに」とも称され、「三組谷」などとも記された。下松尾掛一八ヵ村の一つで、松尾組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として「唖谷にくみたに」とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑一町一反余(高九斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。寛延四年(一七五一)の下松尾村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(相良家文書)では「山くら山」「春原山」に焼畑六六枚・五町一反余があり、その年貢米七斗余・取銀四二匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(同文書)では高一二石六斗余。

谷村
たにむら

[現在地名]松山市谷町たにまち

松山平野の北平坦部に位置する農村。東は吉藤よしふじ村、西は和気志津川わけしつかわ村、南は長戸ながと村、北は大内平田おおちひらた村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の和気郡の項に「谷村 林有」とある。

古代には、和気郡大内おおうち(和名抄)に属したと考えられる。中世には、河野氏の支配下にあり、その家臣の久枝氏のちに大内氏の統治を受けたのであろう。近世に入り、加藤嘉明・蒲生忠知の治世を経て、寛永一二年(一六三五)以降松平氏による松山藩領となった。


たにぐみむら

[現在地名]谷汲村徳積とくづみ

現村域の中央部東寄り、妙法みようほうヶ岳の南東麓にある。西国三十三所観音霊場の満願所谷汲山華厳けごん寺があり、同寺門前として賑い、中山道赤坂あかさか宿(現大垣市)より分岐する谷汲巡礼街道が通じている。谷汲の名は延暦年間(七八二―八〇六)華厳寺の堂塔を建立するために掘った岩から湧出した油で観音の灯明をともしたことに由来するという。「公衡公記別記」乾元二年(一三〇三)閏四月一七日条に「美濃谷(汲)」とある。「鷲見家譜」によれば、建武四年(一三三七)三月鷲見忠保は南朝方と戦い、大洞おおほらを焼き、そして谷汲を襲ったという。谷汲の戦である。

谷村
もみやむら

[現在地名]板倉町籾谷

板倉沼から西に続く低地南部に位置し、東は内蔵くら新田・浮戸うきど村、南は岩田いわた村、西は羽附はねつく(現館林市)。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方九一五石九斗余・畑方三四六石一斗とある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)では高一千五七石五斗余、田八五町二反余・畑六五町五反余である。天和二年(一六八二)旗本森川・鵜殿・中山・堀・松平・水野領の六給となる(分郷配当帳)。近世後期の御改革組合村高帳では、現板倉町に含まれた村のうち唯一の館林藩領で、高一千四〇〇石余、家数六九。安政二年(一八五五)の「封内経界図誌」によれば高一千四〇〇石七斗余、田反別八八町四反余・畑反別八三町四反余、家数一四五、男三〇六・女三〇八、馬一五。

谷村
たにむら

[現在地名]氷上町谷村

東縁を佐治さじ(加古川)が流れ北は新郷しんごう村、但馬への道が通る。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高五二三石余・畠高三〇六石余、芝山あり、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領、天和二年(一六八二)旗本安藤領となる(「寛政重修諸家譜」など)。国立史料館本元禄郷帳でも同領。延宝六年(一六七八)の検地帳によると、上田一二町余・中田一二町余・下田八町余・下々田七町余、上畑三町余・中畑八町余・下畑一一町余・下々畑八町余、屋敷六町余。

谷村
くるみだにむら

[現在地名]志賀町甘田

大島おしま村の南、坪野つぼの村の南西にあり、北西部の海岸砂丘上に主集落、南東部の眉丈びじよう山系の丘陵の麓に長島ながしま集落がある。近世初頭は雨田あまだ村と総称された地に属し、正保郷帳では雨田村・谷村・岩田いわた村・宿女やどめ村を一括して高付される。元和二年(一六一六)の高二五一石余(「苦竹運上極」雄谷文書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高三二七石、免四ツ六歩、新田高五五石、小物成は山役九〇目・苦竹役四匁、鳥役二匁(出来)とある(三箇国高物成帳)

谷村
たにむら

[現在地名]井波町谷

蓮代寺れんだいじ村の西、西大谷にしおおたに川が形成した小扇状地に立地。天正一三年(一五八五)一〇月一四日の前田利勝請取状(遺編類纂)に「谷村」とみえ、河上蔵米のうちとして五〇五匁を綿で納めている。元和五年(一六一九)の家高新帳ではつほ野組に属し、役家数五。正保郷帳では高三三五石余、田方二一町四反余・畑方九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三六七石・免五ツ四歩、小物成は山役三二五匁(三箇国高物成帳)。所属組は志観寺しかんじ村に同じ。

谷村
たにむら

[現在地名]神岡町谷

高原たかはら川下流西岸、ソンボ谷と高原川・みや川が合流する飛騨国境に位置する。東は越中国新川にいかわ東猪谷ひがしいのたに(現富山県上新川郡大沢野町)、西は加賀沢かがそ(現宮川村)、南は中山なかやま村、北は越中国婦負ねい蟹寺かんでら(現富山県婦負郡細入村)。現神岡町内では当村のみ小島こじま郷に属し、元禄飛騨国検地反歩帳では高四石余、田二畝余・畑二町八反余。「飛騨国中案内」では免三割九分余、家数三はみな百姓、平地が少なく傾斜地で、谷川の水元はほら(現宮川村)山内のいけはらから流れ出る。

谷村
たにむら

[現在地名]市川町谷

近平ちから村の北に位置し、村内を振古ふりこ川が流れる。神西じんさい郡に属する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は屋形やかた村と同じ。正保郷帳では田方四八二石余・畑方八七石余、「柴山有・草山有」と注記される。天保郷帳では高五七九石余。徹心てつしん(現神崎町)の過去帳によると、当村の吉太夫(戒名宗蓮)は寛文六年(一六六六)の年貢不納の申合せで処罰されている。天保八年(一八三七)当村の太郎右衛門は酒造米高三〇〇石を有していた(「酒造米高帳」屋形池田家文書)

谷村
あしだにむら

[現在地名]河合村大谷おおたに

稲越いなごえ川最下流にあり、南は大木おおき村、東は小無雁こむかり村、西と北は角川つのがわ村。天保郷帳には蘆谷村とある。元禄飛騨国検地反歩帳では小鷹利こたかり郷に属し、高七石余、田二反余・畑五町七反余、桑二畝余。元禄七年(一六九四)の角川村稲越江入作之御竿請帳(清水文書)によれば、芦谷村への角川村からの入作は七人で計二町四反余。同九年の入作畑人々高帳(同文書)では、七人分で分米三石余。「飛騨国中案内」では足谷村とあり、免二割二分余、家数四(うち百姓二・門屋二)。天明八年(一七八八)の村明細帳によれば、家数四・人数二五、農間稼は男は紙漉・莚織、女は麻布を織る。

谷村
たにむら

[現在地名]西脇市谷町

和田わだ村の西に位置し、慶長一五年(一六一〇)に和田村より分村したという(元禄一二年「言上書」和田町有文書)。慶長国絵図に村名がみえる。江戸期の領主の変遷は和田村に同じ。正保郷帳によると田方六一石余・畑方四石余。延宝五年(一六七七)の検地帳(遠藤家文書)では高八一石余・反別九町余、小物成は山手銀七匁余・野藪役銀四分。

谷村
かずらだにむら

[現在地名]玉川町葛谷

現玉川町西部の山村。村の中央を流れる葛谷川の谷間でも標高二〇〇メートルを超える。東と南は竜岡下りゆうおかしも村に囲まれ、北は御馬屋みまや村に接する。西は郡境の麻生峠を越えると河内かわのうち(現菊間町)である。村に入るには御馬屋村から羽藤峠(三〇四メートル)を越すか、大きく南に迂回して竜岡下村の庄府しようぶ道を通り、小川で分れて北上し、字長田から入る。

寛永一三年(一六三六)の葛谷村検地帳に、田畑合わせて三〇町三反余、うち山畑三町九反とあり、慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項には「桂谷村 日損所、野山有、林少有」、高二六二石とある。

谷村
たにむら

[現在地名]和歌山市谷

名草なくさ郡に属し、黒谷くろだに村の東にあり、淡島街道(旧南海道)が東西に通る。天文一六年(一五四七)三月一五日付の山口庄中司等連署下地売渡状(国立史料館蔵名草郡古文書)の売人の加判者の一人左近大夫の肩書に「タニ」とみえる。中世は山口やまぐち庄に属した。

慶長検地高目録によれば高四七〇石余、小物成四斗九升七合。山口組に属し、「続風土記」は家数五五、人数一九二、社寺として山王権現・春日明神を祀る社(現山口神社)・荒神石祠、浄土宗西山派地福じふく寺・新義真言宗宝滝ほうりゆう寺を記す。

谷村
あしだにむら

[現在地名]竹野町芦谷

小丸こまる村の北東、竹野川下流域右岸の来日くるひ(五六六・七メートル)北西麓に位置する。江戸時代の領主の変遷は宇日うひ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高七一石余。同絵図にとどろき村・小丸村から当村を経て山越えで城崎郡湯島ゆしま(現城崎町)へ向かう道が描かれている。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。元文四年(一七三九)の家数人数其外書上帳(細田家文書)によると家数三二・人数一四七、社一、牛六。

谷村
あしだにむら

[現在地名]丹生川村芦谷

小八賀こはちが川沿いに白井しろい村の東に続く。川沿いに平湯ひらゆ街道が通り、北西は板殿いたどの村。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に足谷あしだにとみえ、はたほこ・板殿・東出羽谷ひがしでわがだにの三村とともに高付される。高一九六石余(畑方)、物成高五八石余。同一八年郷帳では足谷村として一四石余。元禄検地反歩帳に芦谷村とみえ高一六石余、畑二町五反余。「飛騨国中案内」によれば免は四割四分六厘、家数一〇(すべて百姓)

谷村
たにむら

[現在地名]倉吉市谷

津原つわら村の南に位置する。拝領高は二五二石余、本免五ツ二分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二七〇石余、竈数一五。牛頭天王、禅宗玄徳げんとく(源徳院)がある。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三〇二石余、竈数二五。藪役銀一五匁を課されていた(藩史)。牛市が立っていた(同書)。曹洞宗の長谷山源徳げんとく院は本尊釈迦如来。もとは今在家いまざいけにあったと伝え、文禄元年(一五九二)定光じようこう寺の玄育が現在地に移し開創したという。

谷村
やむら

[現在地名]幡豆町東幡豆ひがしはず

さん山の南、愛宕あたご山の山裾が東西に分れ、その谷間にできた集落で、一部南へ延びて海浜も包含している。嘉永六年(一八五三)の丑郷帳(牧野健吉氏蔵)によると、三石一斗二升の塩を浜役として納めている。

上畑うえはたの上畑池から延長三〇〇メートルの掘割用水が通じている。寛永一七年(一六四〇)の完工といい、長根ながね山頂近くにある大きな自然石に工事の由来が刻まれている。

谷村
たにむら

[現在地名]八尾町宮腰みやのこし

北谷きただに村の南方、久婦須くぶす川右岸の山腹にある。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に村名がみえ、当所など一四五俵の所が佐々定能に与えられている。正保郷帳に村名がみえるが、村高は外面谷そとめだに村と合せて高一九九石余、田方四町八反余・畑方八町四反余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高一二九石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高一一一石余。

谷村
たにむら

[現在地名]桜井市大字谷

桜井村の南に所在。東は河西かわにし村。近世初期は桜井村のうち。元和五年(一六一九)以降津藩(藤堂高虎)領。桜井村からの分離独立は郷帳によれば寛永一六年(一六三九)から元禄一五年(一七〇二)の間。同藩の谷代官所が初期から置かれていた。また初瀬はせ街道に沿い出垣内である仁王堂におうどうが発達し、茶屋も生れている。

文政一二年(一八二九)の「桜井茶話」(上野市立図書館蔵)には「桜井村より西へ六七丁、阿部あべ村と桜井村との境に仁王堂とて(さくら井の子村なり)民居三四十軒斗あり、此処にいにしへ安倍山の仁王門ありし故にこの名あるよしこの里の老人かたりぬ」とあり、室町頃には安倍あべ(文殊)院前の「仁王堂茶屋」の名があらわれる(多武峯寄進田本券文)

谷村
たにむら

[現在地名]立山町谷

白岩しらいわ川の支流右近うこん川上流域の谷間にあり、北西は目桑めつか村。永禄年間(一五五八―七〇)池田いけだ城落城に際し当地に落延びた金森氏の家臣が開発したという(五百石地方郷土史要)。寛永二一年(一六四四)の本願寺門徒誓詞証文(円満寺文書)に谷村の与三右衛門・四郎太郎などの名がみえ、この谷村は当村にあたるか。正保郷帳では高四七石余、田方二町六反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五三石、免四ツ八歩、小物成は山役四六匁・蝋役二匁・漆役六匁、享保一三年(一七二八)の検地引高九石余(三箇国高物成帳)

谷村
たにむら

[現在地名]御嵩町上之郷かみのごう

井尻いじり村の北にあり、谷川に面した細長い小集落。東は林垣外はやしがいと村。上之郷一六ヵ村の一で、元禄郷帳に村名がみえ一〇一石余。尾張藩領。「濃州徇行記」によれば田五町二反余・畑二町七反余、百姓控山四町一反余、家数一八・人数一〇〇余。村中縦横に坂があり、平地はない。民戸はカクレヤ・下カクレ・南谷みなみだにつちトリ・東向ひがしむかヒ・洞向ほらむかヒに散在する。

谷村
たにむら

[現在地名]加西市谷町

上野うえの村の北に位置する。播但中央山地の南部、高峰たかみね山・小谷こだに城山連山の南麓に立地し、ほぼ東西に走る山崎やまさき断層の低地帯に面する。東は小谷村。天正一五年(一五八七)九月二四日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に谷村とみえ、木下家定は豊臣秀吉から同村の七五石余・三五〇石などを宛行われている。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は市場いちば村と同じ。正保郷帳では田方三二三石余・畑方四一石余。

谷村
たにむら

[現在地名]東浦町谷

仮屋かりや浦の南西にあり、東に海(大阪湾)を望む。海沿いを走る岩屋いわや街道沿いに比較的多く人家が集まっていた。西はなだらかな斜面が続き、そこに田畑が階段状に作られていた。正保国絵図に村名がみえ、高六二石余。天保郷帳では高一四四石余。来馬組に属した。反別戸数取調書では反別二町一反余、高一八〇石余ですべて蔵入地。家数五七・人数二一七。農業が生業の中心であるが、瓦を製造する瓦師もおり、製品は小廻船によって紀州などへ運ばれた。また製造過程でできる須灰は、暖房用として大坂などの都市へ出荷された(「釜口御番所文書」海部伸雄氏所蔵文書)

谷村
たにむら

[現在地名]敦賀市谷

高野たかの村の南に位置し、東・西・南の三方を山に囲まれ、北の一方のみ開けて高野村に通ずる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高六九〇石余。正保郷帳では村切が行われて田方一九一石余・畠方五石余。天和二年(一六八二)小浜藩領より鞠山藩領となる。享保一二年(一七二七)には庄屋藤十郎(持高一四石余)、牛馬銀一一匁余、新山手銀九一匁余、渋柿代米二斗二升二合(三斗七升分)、夫役三ツ、夫米二俵余、馬足一二、牝馬一、家数一九(うち高持一〇・無高八・寺一)、人数一〇三(敦賀郷方覚書)

谷村
たにむら

[現在地名]波賀町谷

引原ひきはら川の左岸に位置し、対岸は日見谷ひみたに村・下小野しもおの村。初め同川両岸にまたがっていたが、寛文(一六六一―七三)前後に下小野村を分村(元禄郷帳など)。領主の変遷は延宝七年(一六七九)まで安賀やすが村と同じ。同年幕府領(「本多家譜」東京大学史料編纂所蔵など)、文政六年(一八二三)上野館林藩領、天保元年(一八三〇)幕府領となり幕末に至る(「波賀町誌」・旧高旧領取調帳)

谷村
たにむら

[現在地名]日高町谷

奈佐路なさじ村の西、八代やしろ川の中流域に位置する。慶長六年(一六〇一)から旗本杉原四郎兵衛長氏(通称荒川杉原氏)の知行、宝永七年(一七一〇)分知により旗本杉原源七郎保勝の知行に替わり(「寛政重修諸家譜」、文政九年「大庄屋新設反対願」吉谷家文書など)、幕末に至る。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高一三〇石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも同高。前掲大庄屋新設反対願は、当村名主太郎兵衛が「数年御暮方御用銀格別骨折出精相勤」という理由で新しく大庄屋に任命されたが、古来大庄屋は置かれたことはなく、「御領分一和」は保たれてきた。

谷村
たにむら

[現在地名]大豊町谷

東流する吉野川の北岸、尾生おう村の西にある山村で、本山もとやま郷の一村。地名は天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳に「谷名」とみえ、検地面積四町七代三歩、うち田分一町三反一三代、畠分一町八反一代二歩、屋敷数一九で八反四三代一歩。一部に長宗我部氏の直轄地がみられるが、大部分は公事分と名本分からなる。同年の本山郷高山切畑地検帳によれば五筆一反四〇代の切畑で小麦が作られている。

谷村
たにむら

[現在地名]八幡浜市谷

若山わかやま村の西南部にある山村。「墅截」に「岩野郷若山村之内より分ル、谷村」とある。寛文検地に際し若山村から分離され、庄屋役は若山村庄屋の兼任とされた。宇和島藩領。

太閤検地の石高は九四石八斗五升、耕地面積の比率は田五四パーセント、畑四六パーセントであったが、寛文検地では石高が七パーセント減少し、田五〇パーセント、畑五〇パーセントとなった。「墅截」による村柄は「下」、耕地は田が「中ノ下」、畑は「下」、水掛りは「吉」。

谷村
たにむら

[現在地名]姫路市西脇にしわき

西脇村の北に位置し、揖東いつとう郡に属した。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は口佐見くちさみ村と同じ。正保郷帳には大市谷おおいちたに村とあり、田方一〇二石余・畑方二一石余。元禄郷帳・天保郷帳では谷村と記され肩書に太市とある。村高は天保郷帳まで変わらない。

谷村
たにむら

[現在地名]金屋町谷

岩野河いわのがわ村の北方、同じ谷の奥にある。西は山を隔てて立石たていし村。中世は岩野河郷に含まれていたと思われ、産土神も粟生あお(現清水町)岩倉いわくら神社である。谷八幡社の湯釜の慶安元年(一六四八)、鰐口の宝暦八年(一七五八)の銘にも「岩野川谷村」とある。

谷村
たにむら

[現在地名]宇治市五ヶ庄

五ヶ庄ごかのしよう村内の西部に位置し、西端は宇治川に接する。一七世紀半ば以前は近衛家領、その後は収公されて幕府領となり、一部を准后御料・禁裏女房方知行などに宛行われた。元和四年(一六一八)の谷村名寄帳(陽明文庫蔵)によれば、耕地反別一八町二反四畝、石高二三五・五六五石、寛永一七年(一六四〇)の五ケ庄百姓改帳(同文庫蔵)にみえる戸数は二四、人口一一四。

集落は村域北部に偏在し、南部には条里地割の顕著な水田が展開し、右の一八町二反余の耕作地のうち四七・四パーセントにあたる八町六反四畝余が上田であった。

谷村
たにむら

[現在地名]馬路村魚梁瀬やなせ

魚梁瀬集落の西方にそびえるたに(一一〇八・七メートル)から流れ出る谷山北たにやまきた谷の谷川と、天狗森てんぐもり(一二九五・四メートル)の南から東流する谷山南谷の谷川が合する付近に集落があったが、昭和四〇年(一九六五)魚梁瀬ダムの完成によって湖底に没した。天正一七年(一五八九)の東山八名地検帳では魚梁瀬村魚梁瀬名のなかに谷という地名がみえ、三筆二反三一代五歩が記される。

谷村
ひえだにむら

[現在地名]八東町稗谷

なか村の北方山中に隠里のように所在する。拝領高は一〇六石余。本免六ツ八分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高一二〇石、竈数一〇余。「因幡志」では家数一九、産土神は妙見社・山神。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一二七石余、竈数二二。松尾に御立山があった(文政九年「八東郡村々御立山絵図面合帳」県立博物館蔵)

谷村
たにむら

[現在地名]苅田町谷

山口やまぐち村の西に位置し、平尾ひらお台東麓に小集落が点在する。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高三九四石余、家数四五・人数八六(うち百姓一三・名子五)、牛四・馬三。郷村高帳では高四二二石余、うち新田高二七石余。

谷村
たにむら

[現在地名]山田村谷

山田川右岸、若土わかづち村の南に位置する。正保郷帳に村名がみえ、高嶺たかみね村と合せて高三一石余、田方三反・畑方一町八反余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高二四石・定免六ツ一歩(銀納)、定小物成は山役銀一五匁余・蝋役銀八歩余。慶応四年(一八六八)の家数九(すべて高持百姓)・人数六三(郡方人別書上帳)

谷村
あしだにむら

[現在地名]山北町芦谷

西は日本海に面する海浜の村。北は鵜泊うどまり村、南は蒲萄ぶどう川を越え寒川かんがわ村に至る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大川分あし谷村 下」とみえ、本納三斗七升五合・縄高二石四斗五升三合四勺、家七軒、「かん河ヨリ一里」「塩釜□□」と記される。

谷村
たにむら

[現在地名]大野町十時ととき

光昌寺こうしようじ村の北西、光昌寺山(三九六メートル)南西麓の十時川北東岸にある。正保・元禄・天保の各郷帳、「豊後国志」には記載されない。旧高旧領取調帳に村名がみえ、高一二七石余。安永七年(一七七八)には菅田組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

谷村
たにむら

[現在地名]玉城町日向ひゆうが

北の門前もんぜん村と南のおか村に挟まれている。集落の東部には条里制の遺構がみられる。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば村高二九三石余のうち田方二五二石余。ほかに新田と芝山があった。

谷村
たにむら

[現在地名]下市町大字谷

丹生にう川右岸、黒木くろぎ村の対岸に立地。丹生郷のうち。慶長郷帳では村高一〇七・二六石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は二七四・四〇八石と倍増以上となった。

谷村
たにむら

[現在地名]久美浜町字谷

芦原あしわら村の東側の小さな谷に位置する。

慶長検地郷村帳に高一一二・六六石「谷村」とみえ、延宝九年(一六八一)の延高で一二二石余となった(天和元年宮津領村高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「谷村」の意味・わかりやすい解説

谷村【やむら】

甲斐国都留(つる)郡内の城下町。現山梨県都留市の中心部,桂川流域にある。《勝山記》によれば,1532年小山田信有により〈屋村〉に館が築かれており,以後谷村館は小山田氏三代の郡内(ぐんない)支配の拠点となった。1582年小山田氏は織田信長の命により誅され,以後鳥居氏・加藤氏の支配を経て,1593年には浅野氏重が入部。谷村城の普請,属城勝山城の修築,郡内領の総検地などが行われた。この時谷村は上谷・下谷の二村に分けられている。関ヶ原の戦後の1601年には鳥居成次が入部,1632年成次の子忠房が徳川忠長とともに改易されると,1633年秋元泰朝が都留郡1万8000石で入封し,谷村藩が成立した。秋元氏時代には城下町の整備が進み,上谷村から下谷村にかけて,富士道に沿って新町・早馬町・上町・上天神町・下天神町・袋町・裏天神町・中町・下町・横町が形成された。また用水路十日市場(とおかいちば)大堰の開削など治水の整備,新開,絹織物生産など殖産興業の推進等が行われ,谷村は郡内縞(ぐんないじま)で知られるようになり,また絹商人の活動が顕著となった。1704年秋元氏は武州川越へ転封となり,都留郡は幕府領となって谷村陣屋が置かれた。1724年甲斐一国が幕府領となって以後は,甲府,上飯田(かみいいだ),石和(いさわ)などの各代官所の出張陣屋となり,幕末に至った。1875年上谷村・下谷村は合併して谷村となり,1896年町制を施行。長く南都留郡の中心であったが,1954年周辺の村を合併して都留市となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「谷村」の意味・わかりやすい解説

谷村 (やむら)

甲斐国(山梨県)の城下町。郡内織の産地。地名の初見は1532年(天文1)。同年小山田信有が谷村に新館を建てて以来,戦国期郡内(都留郡)支配の拠点となった。93年(文禄2)入部した浅野氏重は翌年桂川左岸に勝山城を築城,また郡内領の検地を実施,このとき谷村は上谷(かみや)・下谷(しもや)両村に分けられたが,その後も一般には両村を合わせて谷村とよんだ。1633年(寛永10)秋元泰朝が郡内藩1万8000石を受封,城下は従来の上中下の3町が10町に発展,69年(寛文9)検地で上谷村629石余,下谷村817石余。秋元氏の殖産政策で絹織物生産が進展するが,谷村は郡内縞(ぐんないじま)で知られた。1704年(宝永1)秋元喬知の川越移封で勝山城は廃城,郡内領は天領となって石和(いさわ)代官の出張陣屋が置かれ,郡内領の中心地として諸商人,とくに絹商人の活動が顕著であった。1875年(明治8)上谷・下谷両村が合して谷村となり人口2926人。96年町制。その後も南都留郡の政治経済の中心地としての地位を保持した。1954年周辺の村を合併して都留市となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「谷村」の意味・わかりやすい解説

谷村
やむら

山梨県都留市(つるし)の中心地区。旧谷村町。1532年(天文1)小山田氏が館(やかた)をここに設け、江戸初期には谷村藩が置かれ、郡内(ぐんない)地方の政治、経済の中心として栄えた。江戸中期以降は天領となったが代官所が置かれ、郡内織の集散地として栄えた。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「谷村」の意味・わかりやすい解説

谷村
やむら

山梨県南東部,都留市の中心地区。旧町名。桂川の河岸段丘上にある。戦国時代から郡内地方の一中心地であったが,文禄3 (1594) 年浅野氏重のもとで郡内藩の城下町を形成。宝永1 (1704) 年郡内が天領となり代官所がおかれたが,代官所はのち石和に移された。近世以来,甲斐絹 (かいき) の中心的な産地で,機業者が多い。商業も盛ん。

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