豊後国(読み)ブンゴノクニ

デジタル大辞泉 「豊後国」の意味・読み・例文・類語

ぶんご‐の‐くに【豊後国】

豊後

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「豊後国」の解説

豊後国
ぶんごのくに

九州北東部に位置し、北は豊前国・筑前国、西は筑後国・肥後国、南は日向国に接し、東は瀬戸内海・豊後水道に面する。現在は全域が大分県に属する。

古代

〔大化前代〕

五世紀代の大和王権による九州征服の過程が反映されているとされる景行天皇巡行説話は、「日本書紀」「豊後国風土記」などに詳しい。同説話のうち豊後国にかかわる部分の荒筋を「日本書紀」によってみると以下のようになる。景行天皇一二年九月に周防娑麼さば(現山口県防府市)に至った景行天皇は、菟名手(国前臣の祖)・武諸木・夏花らを先兵として九州に遣わし、菟狭うさ(駅館川)川上の鼻垂、御木みけ(山国川)川上の耳垂などを討たせたあとで自ら九州に上陸、豊前国長峡ながお(現福岡県行橋市一帯か)を経て同年一〇月碩田おおきた(大分)国に至った。さらに速見邑に向かった天皇は、一行を迎えた速津媛から大和王権に服属しないことを公言している速見邑のねずみの磐窟や直入なおいり県の禰疑野ねぎのに住む土蜘蛛五人のことを聞き、海石榴市つばいち(「豊後国風土記」では大野郡のうち)で兵器を調達し、城原きばるで軍を整え、稲葉いなば川の川上や禰疑野に彼らを破り、同年一一月日向に向かったという。これらの話からは大和王権の九州経営(県制の整備)において碩田や海部地方を兵站地として直入郡に拠点をしき、周辺の服従しない勢力を軍事力によって制圧していった過程がうかがわれる。前方後円墳の築造時期からみれば、のちに豊後国となった地域で早くに大和王権との関係を結んだのは国東くにさき地方や海部地方など海辺の地域を拠点とする勢力であったという。彼らは航海術においても卓越していたと考えられる。また五世紀初頭における前方後円墳の分布からみると、豊後地方では律令制下の郡の範囲を超えない地域を統轄する在地首長が割拠していたと思われる。しかし景行天皇説話では碩田国・直入県・速見邑と国・県・邑が区別されており、地域の統合が進められ、のちの郡の範囲を超えた地域をまとめる勢力が出現していたとも考えられる。「国造本紀」には国前国造・大分国造・比多国造がみえる。国前国造は吉備臣と同祖で成務天皇の時代に「午佐自命」が任じられたという。なお同国造については「日本書紀」ではその祖を菟名手とし、「豊後国風土記」に菟名手が景行天皇から豊国直の姓を賜わったとあることから、豊国造(伊甚国造と同祖)と同族とみる向きもあるが、国東地方の古墳築造の消長などからも古く畿内勢力と拮抗する力を保持した吉備氏の一族とするのが妥当と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「豊後国」の意味・わかりやすい解説

豊後国 (ぶんごのくに)

旧国名。現在の大分県の大半部を占める。

西海道に属する上国(《延喜式》)。史料的初見は《続日本紀》文武2年(698)9月乙酉の条の〈豊後国真朱〉を献ずるとする記述である。《豊後国風土記》は〈本(もと)豊前国と合せて一つの国たりき……因(よ)りて豊国(とよのくに)といふ,後両つの国に分ちて豊後国〉と称したという。しかし最近の研究(《大分県史》)によれば,本来,前後に分けるべき豊国はなかったが,庚寅年籍(こういんねんじやく)作成を契機として690-692年(持統4-6)ごろ,九州各国の前後国が成立しているので,豊前・豊後両国もこのころ成立した可能性が強いという。《律書残篇》には当国は郡8,郷40,里110とある。郡は国崎(くむさき)/(くにさき),速見(はやみ),大分,海部(あま),大野,直入(なほり),玖珠(くす),日田(ひた)で,豊後国成立以前はほぼ上記の郡規模で評(こおり)/(ひよう)と呼ばれ,大宰府に直結していたようである。奈良時代の豊後の国司は介,掾,大少目と五位以下(《律書残篇》)だったが,平安時代には上国に格付けされ,守,介,掾,目各々1人に史生3人が配置されている。

 国府は現大分市古国府(ふるごう)付近に置かれていたと推察されており,印鑰(いんにやく)社がそのなごりを伝えている。交通制度の駅家は国府に隣接した大分郡高坂駅を起点に,筑前国へは速見郡由布,玖珠郡荒田,日田郡石井の各駅を経て,豊前国へは速見郡長湯駅を経て,日向国へは大野郡三重,同小野駅を経て,肥後国へは直入郡直入駅を経て,東方海上への道は海部郡丹生駅を経て,それぞれ結ばれていた。軍防令による軍団は現大分市旦野原(だんのはる)(大分郡)と玖珠郡九重町上旦(かみだん),下旦(しもだん)に置かれたとする説があるが,史料的確証はない。兵制とかかわる通信施設の烽(とぶひ)は大分郡1,速見郡1,大野郡1,海部郡2が設けられていた(《豊後国風土記》)。741年(天平13)の詔で建立された国分寺は現大分市国分に遺跡があるが,尼寺の位置は不詳。神社は現大分市の由原(柞原)(ゆすはら)宮が豊後一宮と称され,国司の崇敬を受けた。式内社は大社に現大分市の西寒多神社,小社に竹田市の建男霜凝日子(たけおしもごりひこ)神社,大分市の旧佐賀関町の早吸日女(はやすいひめ)神社,別府市の火男火売(ほのおのめ)神社,由布市の旧湯布院町の宇奈岐日女(うなぎひめ)神社がある。国司は730年の大伴三依が初見で,平安時代初頭と末期に遥任(ようにん)国司が比較的多く見られる。1036年(長元9)から1139年(保延5)までの間は大介(おおすけ)と称している。また平安末期には藤原頼輔が知行国主になっている。

1185年(文治1)源頼朝は謀反人源義経・行家の探索・追討を理由に,諸国に守護・地頭設置の勅許を得た。豊後は知行国主藤原頼輔以下,国司で同人の子息でもある頼経,同孫の宗長をはじめ緒方惟栄(これよし)(緒方惟義)など党類の国との理由から,とくに勅許を得て頼朝の知行国である関東御分国9ヵ国のうちに加えられ,頼朝自身が同年12月から数年間知行国主となった。翌年国司に御家人の毛呂太郎藤原季光を推挙し,初代守護に腹心の中原親能(ちかよし)を補任した。親能の猶子大友能直(よしなお)が初代守護に補任されたとする説があるが,親能から譲られたらしい。

 源平合戦前後までさかのぼって豊後の情勢をみると,平重盛の御家人だった緒方惟栄をはじめ,その兄弟の臼杵(うすき)氏・佐賀氏,同族の大神姓大野氏,稙田氏,都甲(とごう)氏,大蔵姓一族,清原氏一族など有力武士団が各地に勢力をもっていた。1181年(養和1)国主藤原頼輔・頼経の命により緒方惟栄ら豊後武士団は反平氏ののろしをあげ,惟栄は84年(寿永3)7月,平氏とかかわりをもつ宇佐八幡宮の焼打ちという暴挙を行った。翌年正月,惟栄は兵船82艘を源範頼に献上,範頼軍を豊後に迎え,豊前から筑前に進んで九州の平氏軍攻略に功績を残した。同年3月平氏が壇ノ浦に滅んだ後,頼朝と義経の対立が激化したとき,京にいた惟栄は後白河院の命でこの渦中に巻き込まれ,義経を京から先導して豊後に下ることになった。大物浦から乗船したが疾風のため難破し,豊後武士の多くは鎌倉方に生け捕られたり降参した。このとき以降の惟栄の消息は不詳である。平氏滅亡後の惟栄らの動向が原因で,豊後が関東御分国になったと考えられているが,大友氏の豊後入部をめぐって,大野氏を中心とする武士団が抵抗して神角寺合戦が行われた。この戦いには肥前国の御家人源壱(さかん)も大友方に動員されており,大規模な合戦だったと考えられている。大友氏の入部を1196年(建久7)とする説があるが不詳である。

 合戦後,大野氏の所領大野荘の地頭職は中原親能に与えられ,その後大友能直を経て妻深妙に,さらに庶子に分与された。大友氏一族はその後,勢力を各地に扶植した。大友氏に従った古庄氏ほかの東国御家人も,各地の地頭職を帯して土着した。1221年(承久3)の承久の乱では,大友氏2代の守護親秀は古庄氏や佐伯氏ら豊後武士団を率いて北条泰時軍に従い,宇治橋の戦で佐伯左近将監は戦死した。鎌倉中期のモンゴル襲来に際して守護頼泰は鎮西一方奉行に任じられ,九州武家勢力の中枢となった。74年(文永11)に柞原八幡宮では異国調伏の臨時勤行を行っている。弘安の役に備えて作成された《弘安図田帳》で豊後の所領関係を見ると,宇佐神宮をはじめ同弥勒寺,安楽寺,蓮華王院,金剛院,城興寺,柞原宮,鶴見社領などの寺社領荘園と並んで皇室御料も見られる。地頭職は守護頼泰以下,大友氏一族や国人衆のほかに北条氏など東国御家人も有しており,その後しだいに得宗領が増加した。

南北朝期に大友氏6代貞宗が嫡子単独相続制を採用したため,庶子家の反目が始まった。南北朝の動乱では大友惣領家が終始足利氏に属したので,豊後は北朝方の一拠点となった。しかし大分郡や玖珠郡に皇室御料があったことから南朝方の武士もいて,玖珠城や高崎城の攻防戦が行われた。室町期になり大友10代親世と11代親著(ちかつぐ)両系による両統交立が始まり,これに不満をもつ親著系の孝親が三角畠の乱を起こし,中国の大内氏がからんだ姫岳合戦が発生した。さらに16代政親と17代義右父子の対立へと内紛は続いた。戦国期になると大友二階崩れの変を経て,21代大友宗麟の時代に大友氏の全盛期を迎えた。宗麟は1559年(永禄2)までに豊後のほかに豊前,筑前,筑後,肥前,肥後の九州北半6ヵ国の守護職を得,九州探題職にも補せられた。1551年(天文20)ザビエルを府内に招いてキリスト教布教を許可するとともに,みずからも受洗しフランシスコと称した。府内には育児院や病院,教会などが建てられ,南蛮文化の拠点となった。この結果,キリシタンは増加し豊後は豊後区として日本3教区中の1教区となった。82年(天正10)天正遣欧使節を派遣したと伝えられているが,ローマ教皇への書簡の花押から彼は関与していなかったといわれる。1578年の日向征伐に端を発した島津氏との戦いに敗れ,以後大友氏は衰退に向かった。豊臣秀吉の九州出馬によって22代大友義統(吉統)(よしむね)は豊後1国を安堵されたが,93年(文禄2)の文禄の役で失敗し改易され,大友氏の豊後支配は幕を閉じた。
執筆者:

義統の除国後,豊後一国は太閤蔵入地となり,検地奉行山口宗永,宮部継潤(けいじゆん)によって検地が開始された。山口は大分郡府内来迎寺に本拠を置き,大分,海部(あまべ),大野,直入(なおいり)の南4郡を,宮部は国東郡高田城と速見郡木付城に交座して,国東,速見,日田,玖珠の北部4郡を担当。結果は,1591年の23万6000石余を大きく上回る37万8000余石(42万石ともいう)の打出しとなっている。

 豊臣秀吉は93年から翌年にかけて日田郡隈(くま)に宮木長次,国東郡高田に竹中重利,富来に筧(かけい)(垣見)家純,安岐に熊谷直陳,直入郡岡(竹田)に中川秀成,大分郡府内に早川長敏,海部郡臼杵に福原直高を配し,残りの蔵入地は,山口,太田一吉,毛利高政などを代官としたほか,大名にも預り支配させた。関ヶ原の戦直前までに,府内,臼杵,木付(杵築)などでは短期間の領主交代がなされており,国東,速見郡には細川忠興が領地を得ている。

 関ヶ原の戦に呼応して旧領主大友吉統が捲土重来を期して,旧臣を糾合した速見郡石垣原(いしがきばる)の戦は,細川,黒田らの軍勢により大敗に終わり,ほかに西軍にくみした臼杵の太田,富来の筧,安岐の熊谷,府内の早川らが除封された。関ヶ原の戦後,府内に竹中,臼杵に稲葉貞通,海部郡佐伯に毛利,速見郡日出(ひじ)に木下延俊,玖珠郡森に来島(くるしま)長親が入部した。このうち,岡,臼杵,佐伯,日出,森の各藩は幕末に至るが,府内は,竹中氏の後,1634年(寛永11)からは日根野吉明が,58年(万治1)からは松平忠昭が城主となり,速見郡木付には,1632年からは小笠原忠知が,さらに45年(正保2)からは松平英親が領有して幕末に至る。かくして,当国内に居城(館)をもつ大名7家が確定された。

 〈正保郷帳〉では,大名領27万7000石余,幕府領預地6万3000石余,その他1万5000石余。村数は8郡で1418ヵ村,国高は35万7300石余で,田方20万8685石余,畑方14万5435石余,新開7064石余となっている。そのほかに他国の大名の飛地として1601年(慶長6)からは熊本藩領が,大分,海部,直入郡に,69年(寛文9)からは,島原藩領が国東郡に,1713年(正徳3)からは延岡藩領が大分,速見,国東郡に領地を保持して,豊後国内に役所を設置している。

 幕府領も日田,玖珠郡を中心に海部,大分,直入,速見,国東の各郡に分布している。幕府領は,一時期大名領などに編入されたが,17世紀の間は,日田と大分郡高田に置かれた代官所(陣屋)が支配し,18世紀初めからは日田代官所(のち西国筋郡代役所に格上げ,永山布政所)支配となっている(一部大名預りもある)。こうした諸藩領支配の複雑さから豊後国の近世政治支配の特徴を〈小藩分立〉〈犬牙錯綜〉と称する。

 豊後国の近世の村数,石高の変遷は,〈元禄郷帳〉では1516村,36万9546石余,〈天保郷帳〉では1473村,41万7514石余,〈旧高旧領取調帳〉では1821村,45万9184石余となっている。村切りの特徴としては,玖珠郡や速見郡日出藩領などは1000石を超える大村が多いのに比して,大野,直入郡には100石以下の小村が多い。

各藩領とも領内産業の奨励に力を注いでいるが,新田開発のための用水確保には初期から積極的に取り組み,1645年岡藩の緒方上井路をはじめ,50年(慶安3)府内藩の初瀬井路,62年岡藩の城原(きばる)井路など,大分,大野,直入郡などでは河川を利用しての井路開発が行われ,杵築藩など国東郡では溜池築調が中心となっている。

 農産物では,初期では木綿栽培がかなり行われているが,17世紀中葉に導入されたシチトウイ(七島藺)は別府湾沿岸の国東,速見,大分郡地方で普及し,農家の貴重な現銀収入源として文字どおり豊後の国産品となっている。また,ハゼ(櫨)は18世紀にはいって日田郡地方を中心にひろく栽培され,日田商人の活動の一助となっている。

 日田商人は,豆田町に置かれた代官所と結びつき,九州各地の大名や村々への金融を行い,日田金(ひたがね)と称された。日田商人の一人広瀬淡窓の弟広瀬久兵衛は郡代塩屋正義と結んで1825年(文政8)には日田郡小ヶ瀬井路を造成し,29年には国東郡呉崎新田を築調し,その他豊前国宇佐郡の沿岸の干拓による新開(しんがい)築造にも力を注いでいる。久兵衛は,府内藩の天保改革にも加わり,青筵会所を運営し,大分郡庄ノ原,机帳原(きつちようばる)の開墾などを行い,財政再建に助力している。

 農民騒動としては,近世初期には単独または数家族による走百姓が多くみられ,17世紀末からは逃散(ちようさん)形態の離村が各藩で発生する。1746年(延享3)には,日田代官岡田庄太夫の年貢増徴政策に反対して日田郡馬原(まばる)村庄屋穴井六郎右衛門らの幕府への直訴のほか,各地で強訴事件が起こっている。1811年(文化8)岡藩領直入郡四原(よはる)に発生した農民一揆は,同年暮から臼杵,佐伯,府内,日出のほか,延岡,熊本藩領さらには豊前にまで波及し,各地で藩の役所や豪農,豪商宅を破却している。これらの多くは,諸藩の商品生産,流通政策に抵抗してのものであった。

 各藩は,農民救済のため,義倉,社倉などを設置しているが,19年には,郡代塩屋正義が陰徳蔵を設けている。17世紀半ばより悪化の兆しをみせていた諸藩の財政は1820年代に至ってその極に達し,府内,臼杵,日出,佐伯,森などの各藩が天保改革に着手し,杵築藩では,特産七島筵の江戸直送り体制を確立している。

 文化面では杵築藩領国東郡安岐手永糸永村の三浦梅園,日出藩士の帆足万里,日田郡豆田町の広瀬淡窓などが学問,教育にその名をあげ,岡藩士田能村竹田は豊後南画をひらいた。

 1868年(明治1)閏4月幕府領は日田県となり,知事に松方正義が就任した。69年の版籍奉還で各藩主は知藩事に任ぜられた。71年日田に西海道鎮台分営が設置され,7月の廃藩置県により豊後には岡,臼杵,杵築,日出,府内,佐伯,森,日田の8県が成立したが,11月大分県に統合された。69年7月直入郡に発生した農民一揆は翌年の各地の騒動の発端となり,70年には日田県下で雑税の廃止を要求して竹槍騒動が起こり,大分郡府内藩地域へも波及している。大分県の成立後の72年12月からは,新政に反対して大分,海部,大野,直入の4郡一揆が起こっている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊後国」の意味・わかりやすい解説

豊後国
ぶんごのくに

現在の大分県の大部分を占める地域の旧国名。『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇2年(698)条に豊後国真朱(しんしゅ)を献ずとあるのが史料上の初見。古くは豊国(とよくに)があり、それが7世紀末に豊前(ぶぜん)・豊後に分かれたとするが不詳。『延喜式(えんぎしき)』(927成)では西海道(さいかいどう)にあり上国。郡は大分(おおいた)、国東(くにさき)、速見(はやみ)、海部(あまべ)、大野、直入(なおいり)、日田(ひた)、玖珠(くす)の8郡。国府は大分郡にあり、現在の大分市古国府(ふるごお)地区に比定されるが遺構は未確認。国分僧寺は大分市国分に所在するが、国分尼寺は未発見。豊後一宮(いちのみや)は由原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)(柞原八幡宮)、式内社(しきないしゃ)としては西寒多(ささむた)神社のほか5社。平安時代には国東郡富貴(蕗)(ふき)など宇佐神宮信仰と結び付いた六郷満山文化、臼杵(うすき)・大野川流域・国東など各地に磨崖(まがい)石仏を中心とする仏教文化が展開した。

 1185年(文治1)には関東御分国となるが、のち大友能直(よしなお)が守護となり、3代頼泰(よりやす)は、対蒙古(もうこ)外交を機に鎮西(ちんぜい)一方奉行(ぶぎょう)として豊後に下向、府中高国府(ふちゅうたかごお)(大分市)に守護所を設置。能直以来、庶子は在地の国人と養子縁組などをして土着する。南北朝内乱時には北朝方の拠点となる。この間に、大友氏は守護大名へと成長を遂げ、大内氏と並んで西国の有力守護大名となる。大友氏内部の家督争いのなかで国内も争乱状態となるが、18代親治(ちかはる)のころから戦国大名化し、19代義長は家内法ともいうべき「条々」を発し、家臣団統制・軍事警察の強化を行う。21代家督となった義鎮(よししげ)(大友宗麟(そうりん))は、九州6か国の守護を手中に収め、キリシタン大名として君臨する。豊後府中は南蛮貿易の拠点となり、育児院・病院・教会堂が建てられ、キリスト教布教の中心となり、直入郡朽網(くたみ)、大野郡野津院(のついん)・速見院・由布院(ゆふいん)など国内各地にもキリスト教徒が分布した。1578年(天正6)以来、島津氏との反目が続き、86、87年には薩摩(さつま)軍が侵入し、府中や宗麟の隠居城臼杵丹生島(うすきにゅうじま)城も焼き払われた。豊臣(とよとみ)秀吉の出馬により落着をみたが、22代大友義統(よしむね)(吉統)は、豊後一国のみを安堵(あんど)されることとなり、92年(文禄1)秀吉の命により朝鮮に出兵するが、咎(とが)ありとして翌93年除国され、豊後は太閤蔵入地(たいこうくらいりち)となる。93年秀吉は、山口宗永・宮部継潤(けいじゅん)を検地奉行として「五畿内(ごきない)同前」の検地を実施し、岡(竹田)に中川秀成を配するなど大名領と代官が配された蔵入地が置かれた。

 関ヶ原の戦い後、臼杵に稲葉貞通(さだみち)、佐伯に毛利高政、日出(ひじ)に木下延俊、森に来島(くるしま)(久留島)康親が入部した。杵築には1645年(正保2)に松平英親が、府内にはたび重なる領主交替を経て1658年(万治1)松平忠昭が入り、譜代(ふだい)大名領となった。1601年(慶長6)からは肥後熊本藩加藤清正(きよまさ)(のち細川氏)領が、1669年(寛文9)からは肥前島原藩松平忠房(一時期、戸田氏領となる)領が、1713年(正徳3)からは日向(ひゅうが)延岡(のべおか)藩牧野成央(なりなか)(のち内藤氏)領が成立し、七つの小藩と他国領が存在した。日田・玖珠郡を中心に置かれた幕府領は、一時期藩領となるが、1686年(貞享3)からは幕府領として維持され、日田に置かれた代官所(のち西国郡代役所、永山布政所ともいう)が九州一円の幕領支配の中心となり、豆田(まめだ)・隈(くま)両町を中心とする日田地方には広瀬淡窓(たんそう)を頂点とする日田文化が開花した。1811年(文化8)岡藩に勃発(ぼっぱつ)した一揆(いっき)の波は、同年末から12年初めにかけて豊後のほぼ全域から豊前にまで及び、「小藩分立」体制を揺るがした。1868年(慶応4)閏(うるう)4月、幕府領は日田県となり、71年7月の廃藩置県によって豊後には岡、臼杵、杵築、日出、府内、佐伯、森、日田の8県と島原・熊本県領が成立したが、同年11月に大分県に編入された。

[豊田寛三]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「豊後国」の意味・わかりやすい解説

豊後国【ぶんごのくに】

旧国名。西海道の一国。現在の大分県の中・南部。もと豊(とよ)の国。7世紀末ころに豊前・豊後2国とし,《延喜式》に上国,8郡。国府は現在の大分市にあったと推定される。中世を通じて大友氏が支配。その城下町の府内(大分市)は南蛮文化・貿易の中心となった。近世は小藩・天領・宇佐神領に分立。→宇佐神宮府内藩
→関連項目大分[県]大野荘(大分)九州地方田渋荘府内

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊後国」の意味・わかりやすい解説

豊後国
ぶんごのくに

現在の大分県の大部分の地。西海道の一国。上国。古くは豊前国と合せて「豊国 (とよのくに) 」と称したことが『豊後国風土記』『古事記』にみえる。『豊後国風土記』には8郡,40郷とある。国府は大分市古国府。国分寺は大分市国分。『延喜式』には日田,大分,国崎などの8郡,『和名抄』には 42郷,田 7500町を載せている。弘安8 (1285) 年の『豊後国図田帳』には田 6873町を載せている。鎌倉時代の初め中原親能が守護となったが,その子孫大友氏は鎌倉,室町時代を通じて守護を世襲し,室町時代後期には豊前国,筑後国にも勢力を伸ばした。特に戦国時代の大友宗麟のときは最盛期で,一時は北九州6国を支配したが,天正6 (1578) 年島津氏に敗れて衰えた。江戸時代には臼杵に稲葉氏,日出 (ひじ) に木下氏,佐伯に毛利氏,森に久留島氏,府内に松平氏,岡に中川氏と数藩に分れた。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,各藩は県となり,1876年大分県に統合された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

藩名・旧国名がわかる事典 「豊後国」の解説

ぶんごのくに【豊後国】

現在の大分県の大部分を占めた旧国名。古く豊(とよ)国から豊前(ぶぜん)国(福岡県東部、大分県北部)と豊後国に分かれた。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の大分市におかれていた。鎌倉時代関東御分国となり、12世紀中ごろに大友氏守護として入部、南北朝時代から戦国時代を通じて領有。とくに大友宗麟(そうりん)キリスト教の布教や南蛮貿易に意欲的だった。江戸時代には幕府直轄領や多数の小藩があった。1871年(明治4)の廃藩置県により大分県となった。◇豊前国と合わせて豊州(ほうしゅう)ともいう。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「豊後国」の解説

豊後国
ぶんごのくに

西海道の国。現在の大分県南部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では日高(日田)・球珠(くす)・直入(なおり)・大野・海部(あま)・大分・速見(はやみ)・国埼(国東)の8郡からなる。国府・国分寺は大分郡(現,大分市)におかれた。一宮は柞原(ゆすはら)八幡宮(現,大分市)。「和名抄」所載田数は7500余町。「延喜式」では調庸として綿・布のほか魚介類が多い。7世紀末にかつての豊国(とよのくに)が前後にわかれて成立。平安時代には天台宗系の六郷満山文化が栄え,富貴(ふき)寺,熊野磨崖仏などが残る。豊前国宇佐宮領荘園が広がった。鎌倉時代以降おおむね大友氏が守護となり,守護所を府中(府内とも。現,大分市)におき,広く九州北半に勢力をふるった。大友義鎮(よししげ)(宗麟)はキリシタン大名として知られる。江戸時代は国内に7藩が成立。他国の藩領・幕領も多かった。1868年(明治元)幕領は日田県となる。71年の廃藩置県により豊後国は大分県となる。76年福岡県から宇佐郡・下毛郡を編入し現大分県が成立。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android