豊橋(市)(読み)とよはし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊橋(市)」の意味・わかりやすい解説

豊橋(市)
とよはし

愛知県南東部、東三河地方の中心都市。1906年(明治39)市制施行。県下二番目の市制都市である。1932年(昭和7)下地(しもじ)町、牟呂(むろ)吉田村、高師(たかし)村、下川村石巻(いしまき)村の一部を編入、1955年(昭和30)二川(ふたがわ)町と前芝(まえしば)、高豊(たかとよ)、老津(おいつ)、石巻の4村、杉山、双和(そうわ)の2村の一部を編入。1999年(平成11)中核市に移行。JR東海道本線、飯田線(いいだせん)、東海道新幹線、名古屋鉄道本線、豊橋鉄道渥美(あつみ)線の結節点になっている。また、国道1号、23号、42号、151号、259号、362号が通じる。豊橋駅から東部の赤岩口、運動公園前まで路面電車が走る。豊川(とよがわ)下流南岸に位置し、河岸段丘、沖積地、干拓新田からなり、市街地は段丘上にある。

 古代は飽海(あくみ)、中世は今橋(いまはし)、吉田とよばれ、1869年(明治2)に豊橋と改名された。豊川に架かっている橋の意味で、橋は現在の吉田大橋の下流600メートルにあった。今橋城は1505年(永正2)牧野古白(まきのこはく)の築城で、その後、吉田城となり、1590年(天正18)には池田輝政(てるまさ)が入城、15万石にふさわしい城および城下町の改造がなされた。在城10年ののち輝政は姫路へ転封され、その後明治維新まで3万石から8万石の領主が続いた。城跡は現在豊橋公園となり、復原された鉄櫓(くろがねやぐら)がそびえている。また、公園内には野球場などのスポーツ施設と美術博物館がある。吉田宿と二川宿は東海道五十三次の宿場町で、吉田宿は城下町と港町を兼ねて繁栄したが、第二次世界大戦で戦災を受けて戦災復興都市となった。二川宿は当時の町並みを残し、旧本陣馬場家は「二川宿本陣宿帳」(県指定有形民俗文化財)を保存している。1991年(平成3)に二川本陣資料館が開館した。明治維新後は軍都となり、城跡には歩兵、工兵連隊が置かれた。その後、高師村には第十五師団司令部が置かれ、高師原は演習場として使われた。師団司令部は第二次世界大戦後に愛知大学となり、高師原演習地は農業開拓地となった。産業は、戦前製糸の町で全国一の玉糸の産地であったが、現在は臨海工業地帯に近代的大工場群が立地し、豊橋港を中心とした三河港も重要港湾の指定を受け、貿易港として機能している。沖積地はハクサイ、つまもの野菜、キャベツなどの野菜や花卉(かき)の一大産地で、養豚、養鶏のほか、ウズラの飼養などが盛ん。水産業はウナギ、ノリの養殖地帯として全国的に有名。地場産業として、筆づくり、ちくわ、ゼリーなどの食品加工がある。文化財も多く、国指定の重要文化財に東観音寺(とうかんのんじ)の多宝塔、普門(ふもん)寺の釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)、阿弥陀(あみだ)如来坐像、四天王立像があり、国の史跡に瓜郷(うりごう)遺跡、嵩山蛇穴(すせじゃあな)、国の天然記念物に石巻山石灰岩地植物群落がある。旧石器時代の人骨ではないかとして一躍注目を浴びた牛川人の発見地は牛川町の石灰岩採石場である。面積261.86平方キロメートル、人口37万1920(2020)。

[伊藤郷平]

『『豊橋市史』全8巻(1972~1987・豊橋市)』


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