豊沢広助(読み)とよざわひろすけ

改訂新版 世界大百科事典 「豊沢広助」の意味・わかりやすい解説

豊沢広助 (とよざわひろすけ)

義太夫節三味線演奏者。(1)初世(1777-1824・安永6-文政7) 豊沢派の祖。大坂の生れ。2世竹沢弥七の門弟。初名竹沢源吉。1791年(寛政3)初出座。1802年(享和2)に2世竹沢権右衛門,08年(文化5)に3世竹沢弥七と改名。11年に豊沢と改姓し,広助と名のった。(2)2世(?-1860(万延1)) 初世の門弟。1806年(文化3)竹沢吉松の名で大西芝居へ初出座。豊沢言平,権平,団平,仙左衛門などを名のったのち,26年(文政9)に2世相続。翌年退座して京都祇園へ移住,39年(天保10)に3世へ名前を譲り広々翁と名のった。(3)3世(1806-47・文化3-弘化4) 初世の門弟。1822年(文政5)出座。初名豊沢源之助。のち2世仙左衛門,竜甫を経て,39年(天保10)に3世を襲名。5世竹本政太夫や竹本氏太夫らの名太夫を弾いた。(4)4世(1821-65・文政4-慶応1) 3世の門弟。1834年(天保5)初出座。初名豊沢猿之助。源吉,3世仙左衛門を経て,54年(安政1)に4世を相続した。(5)5世(1831-1904・天保2-明治37) 京都西陣の生れ。3世の門弟。1843年(天保14)初出座。初名豊沢豊之助。富助,2世猿糸を経て,70年(明治3)に5世を相続。84年から彦六座の三味線紋下になり,引き続き文楽座でも紋下として健腕を振るい,2世竹本越路太夫(のち摂津大掾)や2世竹本津太夫を弾いた。明治期の名人。(6)6世(1842-1924・天保13-大正13) 1854年(安政1)に5世へ入門。初名豊沢猿二郎。竜助,仙糸,広作を経て,1905年に6世を襲名。竹本摂津大掾相三味線を勤めた。22年に近衛家から名庭絃阿弥(なにわのげんあみ)の名を受けた。(7)7世(1878-1957・明治11-昭和32) 1891年に5世へ入門。初名豊沢竹三郎。5世豊沢猿糸を経て,1931年に7世を相続。義太夫節の旋律を分析し,体系化した功績は大きい。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊沢広助」の意味・わかりやすい解説

豊沢広助
とよざわひろすけ

義太夫(ぎだゆう)節の三味線。豊沢派の宗家名。初世(1777―1824)は2世竹沢弥七(たけざわやしち)の門弟で、初め竹沢源吉と名のった。やがて、実力者豊竹麓太夫(ふもとだゆう)や3世竹本政太夫(まさたゆう)の支持を得て、2世竹沢権右衛門から3世弥七を相続する。そして、1811年(文化8)に豊沢広助と改名した。門弟に恵まれて歴代名手を輩出したが、なかでも5世(1831―1904)は、豊沢団平とともに明治時代の双璧(そうへき)であった。通称松葉屋広助。6世(1842―1924)も名手で、晩年の竹本摂津大掾(せっつのだいじょう)を弾き、1922年(大正11)には近衛(このえ)家から名庭絃阿弥(なにわげんなみ)の名を与えられた。7世(1878―1957)を継いだのは5世の養子豊沢竹三郎であるが、不遇な舞台生活のため、数多い門葉もついに四散した。しかし、義太夫節の骨組みとなる各種の旋律型(「節(ふし)づくし」という)を集大成し、後世に残した功績は大きい。

倉田喜弘]

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世界大百科事典(旧版)内の豊沢広助の言及

【竹沢弥七】より

…(2)2世 生没年等未詳だが,3世政太夫,組太夫(《野崎村の段》を初演)らを弾いた。(3)3世(1777‐1824∥安永6‐文政7) 2世門人で,源吉,千右衛門,2世竹沢権右衛門から1808年(文化5)に弥七をつぎ,のち初世豊沢広助となって,豊沢姓を興した。(4)7世(1831‐76∥天保2‐明治9) 6世の門人。…

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