出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
女義太夫。名古屋の生れ。本名永田仲。父親の没後,浄瑠璃好きの叔父に養育されて5世竹本土佐太夫につく。叔父は七福座という寄席を経営していたので,16歳のとき仲路の名で出演。1892年名古屋を訪れた初世豊竹呂太夫に入門して大阪へ移る。やがて高津清津橋の播重(はりじゆう)席へ出勤し,大阪における女義太夫の全盛期をつくり上げた。96年に播重から離れ,末虎,愛之助ら約10人と〈都保美連(つぼみれん)〉を結成。曾根崎橋の万亭を定席にしたが,焼失後は各地の劇場へ出演する。99年9月に東京茅場町の宮松亭へ出勤,実力は認められたが人気はいま一つであった。ところが1908年以降,有楽座の名人会では圧倒的な人気を博し,女義太夫界の頂点に立った。24年に引退,30年6月7日没。つやのある美声で,《酒屋》《鳴門》《先代萩》《朝顔》などを得意とした。
執筆者:倉田 喜弘
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(田中悠美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
女義太夫(おんなぎだゆう)の太夫。本名永田仲(なか)。名古屋生まれ。初め仲路(なかじ)の名で寄席(よせ)に出ていたが、1892年(明治25)大阪に出て初世豊竹呂太夫(ろだゆう)に入門、呂昇の名をもらう。女義(にょぎ)の檜(ひのき)舞台である播重(はりじゅう)席で活躍したが、南地(なんち)の名人会に出たことから97年播重席を退き、女義の向上をうたって都保美連(つぼみれん)を結成。1908年(明治41)東京・有楽座の開場興行に出演。以後、毎年春秋同劇場の名人会に東上、つねに大入りだった。美貌(びぼう)と美声にして達者な義太夫は一世を風靡(ふうび)した。24年(大正13)引退。
[土岐迪子]
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