赤松氏(読み)あかまつうじ

改訂新版 世界大百科事典 「赤松氏」の意味・わかりやすい解説

赤松氏 (あかまつうじ)

鎌倉・室町時代の武家。鎌倉初期,則景が九条家領播磨国佐用荘に地頭職を得て以来西播磨一帯を中心に族的結合を拡大した。同末期には,範資・貞範兄弟が長洲御厨の執行,惣追捕使,また範資は九条家領輪田荘地頭職を得て,海陸交通の要衝である摂津国沿岸部にも基盤を確保した。南北朝期には足利尊氏によって則村が播磨,範資が摂津の守護職に任ぜられ,さらに則祐(そくゆう)の代に備前,明徳の乱後義則が美作の守護職を得た。義則,満祐は侍所所司として幕府中枢に参加,強力な守護大名となったが,満祐は1441年(嘉吉1)の嘉吉の乱で播磨城山城に自害し,播磨,備前,美作の守護は山名氏に代わった。その後,政則は一族が後南朝から神璽しんじ)を奪還した功によって幕府出仕を許され,応仁の乱中に旧領国の支配権を回復したが,実権は家臣とくに浦上氏に握られ,1521年(大永1)義村は浦上村宗によって室津に幽閉,殺害され,領国は浦上氏の支配下に置かれた。守護赤松氏の領国支配のうえで注目すべきは,本国播磨において,旧来王朝権力の系統に属する地方行政機関であった国衙機構を掌握したことである。すなわち,赤松氏は南北朝中期には播磨国衙在庁小河氏ならびにその一族を被官化し,さらに1392年(元中9・明徳3)に国衙目代(もくだい)(代官)職に補任して,それまで独自の機能を保持してきた国衙,留守所を掌握するとともに国衙領守護請を行い,守護の下に国内支配機構を一本化し,領国の唯一の支配者としての地位を確立した。赤松氏の播磨国支配機構においては上位守護代と下位守護代という特異な機構があり,赤松氏は小河氏を上位守護代,国衙目代,納所(なつしよ)などの重要な地位につけ,領国内諸所領の大田文記載図田数の確定とそれに基づく諸種の段銭・公役の配符,催徴などの重要な権限を分掌させている。赤松氏は代々一山派の雪村友梅とその系統の禅僧に深く帰依し,播磨に法雲寺,宝林寺など禅寺を創建して外護した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「赤松氏」の意味・わかりやすい解説

赤松氏
あかまつうじ

播磨国(はりまのくに)(兵庫県)佐用(さよう)郡佐用庄(さようのしょう)を本貫とする在地領主。室町時代播磨国守護。鎌倉初期則景が九条家領佐用庄地頭職を得て以来、西播磨を中心に族的結合を拡大し、同末期には摂津国(大阪府・兵庫県の各一部)沿岸部にも荘園(しょうえん)諸職を得て基盤を確保した。元弘(げんこう)の乱のとき、則村(のりむら)が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に味方し一躍名声をあげる。1336年(延元1・建武3)足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武(けんむ)政権に背くと、則村は嫡子範資(のりすけ)らとともにその与党になり、播磨、摂津の守護職に任ぜられる。そして則祐(そくゆう)が備前(びぜん)、明徳(めいとく)の乱後義則(よしのり)が美作国(みまさかのくに)守護職を獲得し、また義則、満祐(みつすけ)は侍所(さむらいどころ)所司になり、有力な守護大名に成長する。しかし、満祐は1441年(嘉吉1)将軍義教(よしのり)を弑(しい)し(嘉吉(かきつ)の乱)、追討されて播磨国城山城(木山城)(きのやまじょう)に自害する。その領国は山名氏の領するところとなった。1456年(康正2)赤松氏一族および譜代(ふだい)の家臣らが後南朝から神璽(しんじ)を奪還した功によって、幕府は政則(まさのり)(満祐の弟義雅の孫)の出仕を許した。政則は応仁(おうにん)の乱中に旧領国の支配権を回復したが、その実権はしだいに浦上(うらがみ)氏の手に移った。1520年(永正17)守護赤松義村(よしむら)は浦上村宗(むらむね)に追われ、その領国は浦上氏の支配下に置かれた。赤松氏は代々雪村友梅(せっそんゆうばい)とその系統の禅僧に深く帰依し、播磨に法雲寺、宝林寺など禅寺を創建して外護した。

[岸田裕之]

『高坂好著『赤松円心・満祐』(1970・吉川弘文館)』


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百科事典マイペディア 「赤松氏」の意味・わかりやすい解説

赤松氏【あかまつうじ】

村上源氏。播磨(はりま)の豪族。同国佐用(さよ)荘に地頭職を得た則景を祖とする。南北朝時代,則村は足利尊氏に従い,播磨の守護に任ぜられた。その子孫は摂津・美作(みまさか)・備前等の守護となり,また室町幕府侍所頭人(とうにん)を務め四職(ししき)の家格を得た。15世紀半ば満祐が嘉吉の乱で自害し衰えた。のち再興したが家臣浦上氏に領国を奪われた。→赤松則村赤松満祐
→関連項目大部荘白旗城播磨国山崎[町]輪田荘

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤松氏」の意味・わかりやすい解説

赤松氏
あかまつうじ

村上源氏の一流で播磨の豪族。九条家領播磨国佐用郡佐用荘赤松村を本拠として赤松氏を称し,則村のとき,後醍醐天皇の命に応じて討幕の兵をあげ,のち足利尊氏に属して播磨守護。その子範資は摂津守護,則祐は播磨,美作,備前の守護となり,四職家 (→三管四職 ) の一つとして幕閣に重きをなした。しかし,則祐の孫満祐が,嘉吉1 (1441) 年将軍義教を暗殺したため,幕府軍に攻められて自殺,一族は没落。その後政則のとき,将軍義政の許しを得て家を再興。応仁の乱には東軍の将として活躍,播磨,備前,美作を回復した。しかし,その死後は,家臣浦上,宇喜多両氏に勢力を奪われ,則房死後は後嗣なく,断絶。庶流赤松広通も関ヶ原の戦いで西軍に属し,戦死して断絶。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「赤松氏」の解説

赤松氏
あかまつし

中世播磨国の守護大名。村上源氏。鎌倉初期の則景(のりかげ)のとき,播磨国佐用(さよ)荘の地頭に任じられたという。則景の子家範の頃,荘内の赤松村に住み,赤松氏を名のる。家範の曾孫則村(のりむら)は,元弘の乱に際し宮方として六波羅探題攻略に活躍。当初,幕府方に属していたことから建武政権下では冷遇され,1335年(建武2)足利尊氏が反旗をひるがえすとこれに従い,播磨国守護に任じられた。その後,義則のときに備前・美作両国の守護を兼ね,侍所所司ともなり,四職家の一つとして重んじられた。1441年(嘉吉元)義則の長男,満祐(みつすけ)が将軍足利義教を殺害,幕府軍によって追討され,一時没落した。その後,一族の政則が再興したが,その死後はふるわず,家臣浦上氏らに勢力を奪われた。嫡流は1585年(天正13)に絶える。

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旺文社日本史事典 三訂版 「赤松氏」の解説

赤松氏
あかまつし

中世,播磨 (はりま) の豪族。南北朝・室町時代の有力な守護大名
村上源氏。則村 (のりむら) は元弘の変で後醍醐 (ごだいご) 天皇に味方し,建武新政府に参加したが,恩賞に不満をもち足利尊氏に属した。初め播磨守護に任じられ,のち備前・美作 (みまさか) (岡山県)の守護を兼ね,足利方の有力な守護大名となり,四職家の一つに数えられた。1441年満祐 (みつすけ) が将軍足利義教 (よしのり) を殺した嘉吉の乱で幕府軍と戦って敗死し,没落。その後一族の政則が再興したが,義祐のとき家臣浦上氏に領国を追われ,1600年関ケ原の戦いで則房が戦死して一族は離散した。

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世界大百科事典(旧版)内の赤松氏の言及

【赤松再興記】より

…嘉吉の乱(1441)により中絶した赤松氏宗家の再興のもようを簡略に述べた記録。作者,成立年代ともに不明。…

【禁闕の変】より

…しかし管領畠山持国や延暦寺僧兵に攻められ,尊秀王や子息資親らとともに殺された。この事件の意義はむしろ,後に小寺氏などの赤松氏遺臣たちがこの神璽を奪還することにより,赤松惣領家再興の契機とした点にある。すなわち1458年(長禄2)小寺道性以下の赤松遺臣は,赤松氏縁故の三条実量などと計り,吉野山中深くに潜入してこの神璽の奪還に成功したのである。…

【講談】より

… 講談が江戸初期に赤松法印から始まったという説は古くから伝承されているが,この僧も法門講談の系列から出たようである。赤松を名のる講釈師が近世に多数あらわれたのは,かつて赤松則村(のりむら)や赤松満祐(みつすけ)など多くの猛将を出した赤松氏の末のものが〈太平記読み〉として先祖を称揚したものと思われる。1697年(元禄10)ごろに浪花の赤松梅竜と時を同じくして江戸の堺町によしず張りの講席を設け,原昌元と名のって軍談を講じ,《太平記》を読んで大いに名を挙げたのが赤松青竜軒である。…

【侍所】より

…南北朝期の頭人は三浦・佐々木・土岐・佐竹・山名・赤松等の外様大名,細川・畠山・今川・斯波・一色等の足利一門,高・仁木等の足利被官が任ぜられ,幕府内の政争に連動して交替するが,応永(1394‐1428)初年からほぼ山名,京極(佐々木),赤松,一色のいわゆる四職(ししき)家に固定する。応仁の乱前約25年は京極氏が独占し,乱後は赤松氏がしばらく任ぜられるが,その被官浦上氏が所司代として実質的に活動する。応仁の乱までは,侍所頭人は将軍家御料国である山城の守護を兼任する場合が多い。…

【四職】より

…室町幕府の侍所は南北朝後期以降,主として山名,土岐,赤松,京極,畠山,一色の6家から交替で就任していたが,1398年(応永5)畠山氏が管領家に昇格した結果,残余の5家から頭人を出した。なお美濃守護土岐氏は1439年(永享11)以後侍所に補任された徴証がなく,また赤松氏も嘉吉の乱(1441)で没落したので,以後は京極,一色,山名の3家となり,実際に4家が恒常的に頭人を出した安定期間というのはなかった。したがって侍所家のことを俗に四職と称するのは,戦国期に至って実情を誤って回顧した結果であろうと思われ,同時代の史料・記録で四職と呼んだ例はない。…

【備前国】より

…のちに一時期,幕府吏僚の長井泰重(大江広元の孫,六波羅評定衆)に代わったが,鎌倉末期には守護は佐々木(加地)氏に復していた。 南北朝期には,東国出身の国人松田氏や,足利氏支族の細川氏が守護になったが,1365年(正平20∥貞治4)に松田氏に代わって播磨守護赤松則祐(そくゆう)が備前守護を兼ね,義則,満祐と子孫がその職を継いだので,国人土豪は赤松氏の被官化し,また浦上氏などの播磨の武士が流入して赤松氏の領国化した。赤松氏は福岡に守護所をおき,備前を東西に2分して浦上,松田両氏をそれぞれ守護代としたが,嘉吉の乱で没落した。…

【美作国】より

…その反発から南北朝内乱期には菅家党,南三郷党(西作の真島郡南部の鹿田,栗原,垂水3郷の武士団)など在地武士のめざましい活躍があった。南北朝初期に佐々木氏が一時守護になったが,やがて山陰の山名氏と播磨の赤松氏の抗争の的になって,その守護も赤松貞範,山名時氏,同義理と交替し,明徳の乱後の恩賞として赤松義則が守護職を得た。山名氏は深く赤松氏をうらんで,嘉吉の乱で赤松氏を滅ぼしてその所領を奪ったが,応仁・文明の乱で赤松政則が旧領3ヵ国(播磨,備前,美作)の守護職に復したのちにも,たびたび兵を出してその奪回をねらった。…

※「赤松氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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