赤穂城下(読み)あこうじようか

日本歴史地名大系 「赤穂城下」の解説

赤穂城下
あこうじようか

[現在地名]赤穂市加里屋かりや加里屋南かりやみなみ上仮屋かみかりや上仮屋北かみかりやきた上仮屋南かみかりやみなみ寿町ことぶきちよう元町もとまち山手町やまてちよう長池町ながいけちよう農神町のうじんちよう城西町じようさいちよう若草町わかくさちよう

江戸時代の赤穂藩城下町で、赤穂城の北から北西に展開する。千種ちくさ川下流の大川河口デルタにあり、東は大川、南は播磨灘に臨む。播磨灘に浮ぶ取揚とりあげ(一五五三平方メートル)は備前との国境島。町人町は加里屋(松平輝興時代絵図)と称され、正保郷帳では加里屋村、元禄郷帳では加里屋町と記載されており、赤穂町(「浅野氏藩札処理記録」花岳寺旧蔵)、仮屋(赤穂郡志)などとも記された。

くろ谷の長尾ながお山の下に加庄かしようという村があり、明応―永正(一四九二―一五二一)頃から耕作や塩浜が営まれていたが、山下の南に家作して移ったとの伝えから(赤穂郡志)、山麓の集落がしだいにデルタ地帯に移っていったことがうかがわれる。近世には千種川の本流は現流路よりも西側で播磨灘に流出していた(大川)。慶長国絵図では同川河口西側に「かりや」「かりや村」「赤穂」とみえる。加里屋町(村)として幕末に至るまで高付されており、正保郷帳によると田高七九一石余・畑高二七二石余。新田・草山・塩浜あり。元禄郷帳では高一千三九三石余。宝永三年(一七〇六)の指出帳によると高一千五三五石余、田畑六八町余、塩浜一五町余、運上銀五貫余、釜屋二三。牛一六、舟六九。天保九年(一八三八)の巡見使道筋村々明細帳(花岳寺文書)では高一千六五四石余、塩浜三八町七反余。牛一一、船七九。

〔池田氏時代〕

慶長五年(一六〇〇)播磨一国が姫路城主池田輝政領となり、当地には末弟池田長政が配され、掻上かきあげ城が築かれたという(赤穂郡志)。同一八年備前岡山藩池田(松平)忠継領となり、同二〇年輝政の第五子池田(松平)政綱が三万五千石で入封した(「校正池田氏系譜」鳥取県立博物館蔵)。「赤穂郡志」によると元和七年(一六二一)出河原でがわらから失火して加里屋となか村の人家が焼失し、「城ケ洲ノ屋敷」と当地の泉屋・柏屋の先祖の二軒のみ残った。池田輝政の代官垂水半左衛門が奉行して初めて町割を構えたという。寛永八年(一六三一)輝政の第六子池田(松平)輝興が入封した。松平輝興時代絵図によると屋敷構・侍屋敷の北に町屋が位置し、東西四町筋・南北四町筋、北東に二寺(随鴎寺・玄興寺)、北西にも二寺(万福寺・大蓮寺)がみえ、北に向かって姫路街道、西に向かって備前街道が通る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の赤穂城下の言及

【赤穂[市]】より

…赤穂城跡はわずかに石垣,堀などが遺構を伝えるのみであるが,浅野氏の菩提寺の花岳寺や大石神社が観光の拠点で,12月14日の義士祭には討入り装束の行列が町を練り歩く。【小森 星児】
[赤穂城下]
 播磨国赤穂郡の城下町加里屋を指す。15世紀岡豊前守光広が千種川の当時の本流熊見川の河口港中村を掌握するため,その西方,川の対岸に初めてとりでを築いた。…

※「赤穂城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android