足利直冬(読み)あしかがただふゆ

精選版 日本国語大辞典 「足利直冬」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐ただふゆ【足利直冬】

南北朝時代の武将。尊氏の子。直義の養子。高師直(こうのもろなお)に追われたが九州で勢力を築く。文和四年(一三五五)入京したが、三月再び石見(いわみ)に走った。生没年未詳。応永七年(一四〇〇)没ともいわれる。

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デジタル大辞泉 「足利直冬」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐ただふゆ【足利直冬】

南北朝時代の武将。尊氏の子。直義ただよしの養子。高師直こうのもろなおに追われ九州に逃れたが勢力を回復。直義の死後南朝に帰順。一時入京したが間もなく奪回され、以後中国地方を転々とした。生没年未詳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利直冬」の意味・わかりやすい解説

足利直冬
あしかがただふゆ

[生]?
[没]元中4=嘉慶1(1387).7.2.
南北朝時代の武将。尊氏の子。叔父直義の養子。妾腹であったため,幼くして東勝寺に入り,喝食 (かっしき) となったが,延元3=暦応1 (1338) 年直義を頼って直冬と名のった。紀伊に兵乱が起きたとき,尊氏は初めて直冬を登用し左兵衛佐に任じ,将としてこれを討たせた。乱後,従四位下,宮内大輔。正平4=貞和5 (49) 年4月,長門探題として備後の鞆に赴任。この頃直義は尊氏の執事高師直と対立し,ついに直義と尊氏の間も不和となったため,直義党の直冬も9月尊氏軍に攻められて九州の肥後に逃亡。しかし北九州の少弐,大友両氏の協力を得て大勢力となり,尊氏は正平5=観応1 (50) 年6月,追討軍を派遣,次いで 10月には尊氏自身直冬追討のため出京した。しかし,その間に直義が挙兵したので,尊氏は急ぎ兵を返した。翌年尊氏と直義との間に講和が成立,直義は鎮西探題 (→九州探題 ) となり,これより北九州と中国地方西部に勢力を張った。しかし,9月には再び不和となり,正平7=文和1 (52) 年2月,直義は尊氏に毒殺され,直冬は尊氏党の一色範氏 (道猷) に九州を追われて長門へ逃れ,11月南朝に帰順した。南朝では直冬を総追捕使に任じた。正平9=文和3 (54) 年5月,山陰の有力者山名時氏とともに東上,京都に迫った。尊氏は後光厳天皇を奉じて近江に走ったため,翌年正月,難なく入京した。ところが,尊氏とその子義詮に東西から挟撃された直冬は,約2ヵ月後,敗れて西走,正平 17=貞治1 (62) 年,周防の大内,山陰の山名の2氏が尊氏に帰服するに及んで,備後から石見に逃れ,勢力をまったく失った。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利直冬」の意味・わかりやすい解説

足利直冬
あしかがただふゆ

生没年不詳。南北朝時代の武将。尊氏(たかうじ)の子で、尊氏の弟直義(ただよし)の養子。1349年(正平4・貞和5)山陽、山陰8か国を管轄する中国探題(たんだい)として備後(びんご)国鞆(とも)(広島県福山市)に赴任した。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)と称される幕府内紛が起こり、義父直義と執事高師直(こうのもろなお)が対立したことにより、師直の追討を受け九州に逃れたが、少弐頼尚(しょうによりひさ)の援助で勢力を回復した。1351年(正平6・観応2)尊氏と直義の和解により九州探題に補任(ぶにん)されたが、直義の死によりふたたび尊氏方の追討を受け長門(ながと)に移った。1352年(正平7・文和1)南朝に帰順、翌1353年総追捕使(ついぶし)に任命された。幕府の分裂に乗じ東上し、1355年京都を占領したが、足利義詮(よしあきら)らの反撃により没落した。以後中国地方を転々とし反幕府活動を行っていたが、1366年(正平21・貞治5)12月8日の文書(吉川家什書(じゅうしょ))を最後として、以後その活動がみられなくなる。1400年(応永7)ごろ没したといわれている。

小要 博]

『川添昭二編『九州中世史研究 第二輯』(1980・文献出版)』『笠原一男編『室町幕府――その実力者たち』(1965・人物往来社)』

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朝日日本歴史人物事典 「足利直冬」の解説

足利直冬

生年:生没年不詳
南北朝時代の武将。尊氏の長男。母は越前局。母の出自の低さから尊氏に疎まれ,鎌倉東勝寺の喝食となる。建武3/延元1(1336)年,尊氏の室町幕府開幕後上洛して認知を求むるも冷遇され,叔父足利直義の養子となって直冬と称した。貞和4/正平3(1348)年左兵衛佐に任官。紀伊の南軍討伐に功を立て,翌年には長門探題として西下した。この直後の観応1/正平5年観応の擾乱が勃発し,備後鞆から上陸した直冬は,高師直党の杉原氏らに攻撃され肥後に没落した。ここで土豪河尻氏の庇護を受け,鎮西探題と征西府の対立を利して勢力を伸張,翌年,尊氏・直義の一時講和により鎮西探題に補任された。しかし翌文和1/正平7年2月,直義が暗殺されると尊氏との関係は決裂。同年太宰府で南軍に敗れ長門に脱出したのち,一転して南軍に下り幕府に反した。その翌年には直冬党の一部が京都を占領,文和4/正平10年1月にも山陰の雄山名時氏らと南軍を糾合して京都に侵入,尊氏・義詮父子は近江に逃亡した。直冬は自身入京し東寺に居陣したものの,尊氏方の反撃によりわずか2カ月で京都を放棄,以後は安芸辺りにあって時氏の庇護を受ける。貞治2/正平18年には大内弘世,山名時氏の幕府帰参により基盤を失い,貞治5/正平21年12月を最後にその消息は途絶え,中国地方山間部を流浪したと推定される。没年には嘉慶1/元中4(1387)年説,翌年説,応永7(1400)年説などあるがいずれも確証を欠く。長慶天皇と並びその数奇な生涯で南北朝後半期に異彩を放つ。

(今谷明)

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改訂新版 世界大百科事典 「足利直冬」の意味・わかりやすい解説

足利直冬 (あしかがただふゆ)

南北朝時代の武将。生没年不詳。越前局と呼ばれる女性を母とする足利尊氏の庶子であるが,父尊氏,その嫡子義詮とは生涯を通じてほぼ敵対関係に終始した。はじめ鎌倉東勝寺の喝食(かつしき)であったが叔父直義の手によって還俗,その養子となり,1349年(正平4・貞和5)長門探題として下向。翌年直義の失脚後も反尊氏・高師直の兵を九州に広げ,51年の直義の勝利後鎮西探題に任ぜられた。翌年直義が敗死後は宮方,武家方とならぶ佐殿(すけどの)方(直冬は左兵衛佐)として九州・中国地方に勢力をもったがしだいに非勢となり,旧直義党の石塔頼房らを頼って南朝に下った。55年1月,これも旧直義党の桃井直常らの北国軍と呼応して京都を占領したが,わずか2ヵ月しか保つことができず再び西下し,中国地方で勢力の回復をはかったが果たせず,66年12月,安芸の吉川氏に備後,備中等の所領を勲功賞として与えた文書を最後に史上その消息を断った。法名玉渓道昭,慈恩寺殿と号す。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「足利直冬」の意味・わかりやすい解説

足利直冬【あしかがただふゆ】

南北朝時代の武将。生没年不詳。足利尊氏の庶子。叔父足利直義の養子となり,1349年長門(ながと)探題となって下向途中,高師直に追われて九州に落ちのび,一大勢力となる。1351年鎮西(ちんぜい)探題(九州探題)。直義の死後南朝方に降り,1355年入京するが,まもなく尊氏に追われて再び西下,1366年の文書を最後に消息を絶つ。
→関連項目石塔義房斯波高経

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利直冬」の解説

足利直冬
あしかがただふゆ

生没年不詳。南北朝期の武将。尊氏の庶子。母は越前局。はじめ鎌倉東勝寺の喝食(かっしき)。尊氏が将軍になると上洛するが,実子と認められず,叔父直義(ただよし)の養子になる。1349年(貞和5・正平4)山陰・山陽8カ国を管轄する長門探題として下向途中,備後で高師直(こうのもろなお)方の杉原又四郎に襲われ九州にのがれる。鎮西探題一色(いっしき)範氏と南朝征西将軍宮の対立を利用して勢力を拡大,尊氏と直義が和すると鎮西探題に任じられた。直義没後,長門に移って南朝に帰降,尊氏・義詮(よしあきら)と対抗。54年(文和3・正平9)山名時氏らとともに京都へ侵入するが敗退,のち安芸にのがれた。63年(貞治2・正平18)時氏の幕府帰参後の活動は不明。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利直冬」の解説

足利直冬 あしかが-ただふゆ

?-? 南北朝時代の武将。
足利尊氏の子。叔父足利直義(ただよし)の養子。長門(ながと)探題となるが,観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で九州にのがれる。のち尊氏と直義の和睦(わぼく)で鎮西(ちんぜい)探題となるが,直義の死後,尊氏と決裂。南朝方につき,文和(ぶんな)4=正平(しょうへい)10年(1355)一時京都を占領するが,敗れて安芸(あき)にのがれた。尊氏,義詮(よしあきら)父子とは生涯敵対関係にあった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利直冬」の解説

足利直冬
あしかがただふゆ

生没年不詳
南北朝時代の武将
尊氏の庶子。直義の養子となり,1349年長門探題。高師直 (こうのもろなお) に敗れ,九州にのがれて勢力をはる。直義の死後は南朝方に降り各地を転戦。晩年足利義満と和するなど,足利氏の内紛および南北朝の動乱の中心の一人であった。1400年74歳で死んだという説が有力。

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世界大百科事典(旧版)内の足利直冬の言及

【近江国】より

…旧国名。江州。現在の滋賀県にあたる。
【古代】
 東山道に属する大国(《延喜式》)。〈淡海〉〈近淡海(ちかつおうみ)〉とも表記される。滋賀,栗太,甲賀,野洲,蒲生,神崎,愛智,犬上,坂田,浅井,伊香,高島の12郡からなる。《延喜式》のほか738年(天平10)の〈上階官人歴名〉(《正倉院文書》)によって当時も大国であったことが判明する。国衙跡が大津市瀬田神領町の三大寺丘陵で発掘され,国府域は方8町の四周に半町の外縁がめぐっていたと考えられている。…

【観応の擾乱】より

… 1347年(正平2∥貞和3)楠木正行の率いる南朝軍が河内に挙兵し,直義党細川顕氏畠山国清を破ったが,高師直はみずから幕府軍を率いて48年1月正行を倒し,吉野に攻め入り行宮を焼いた。この戦果によってにわかに勢威を強めた師直に対抗するため,49年4月直義は養子足利直冬を長門探題として中国に送り,ついで側近の上杉重能・畠山直宗とともに師直打倒を図った。しかし師直は同年8月自党とともに幕府を囲み,尊氏に迫って直義を引退させ,重能・直宗を配流したうえ殺し,尊氏に勧めて嫡子義詮を鎌倉から呼んで政務にあずからせた。…

【九州探題】より

…1336年(延元1∥建武3),九州に敗走した足利尊氏が,筑前多々良浜合戦で勝機を得,大挙東上する際,一色範氏を九州にとどめて幕府軍を統轄させたのが始まり。その後この職にあったのは,南北朝期は一色直氏,足利直冬,斯波氏経,渋川義行,今川貞世と転変するが,両朝合一後は代々渋川氏であった。
[南北朝期]
 初代鎮西管領一色範氏は,一族を軍事指揮者として九州各国に派遣したが,46年(正平1∥貞和2)子息直氏を下向させ,以後は父子一体となってその政務をとる。…

【征西将軍】より

…そして征西将軍宮は菊池氏の軍勢を率いて再び筑後地方に進出し,これを迎え撃った一色道猷との間で激戦が展開された。 このようなとき,49年(正平4∥貞和5)9月足利尊氏の庶長子足利直冬が下向したことによって,征西将軍宮,道猷,直冬3者の勢力が鼎立することになった。はじめ征西将軍宮は直冬と協力して道猷を挟撃していたが,尊氏が一時南朝方と和議を結んだことにより征西将軍宮と道猷との協力関係が生まれて,直冬は孤立して軍事的に窮地に追い込まれ,九州滞在3年余の52年(正平7∥文和1)11月中国地方に脱出した。…

【筑後国】より

…そのため幕府方は当国の宮方をしきりに攻め,38年(延元3∥暦応1)鎮西管領一色範氏は菊池氏討伐のため筑後に兵を進め,40年には佐竹義尚を派遣し,またみずからも当国を転戦した。49年(正平4∥貞和5)の足利直冬の九州下向によって,九州は幕府方,宮方,直冬方の3勢力に分かれて混乱したが,当国では荒木氏,三原氏らが直冬につくなど,直冬方が優勢であった。同年11月には直冬が詫磨(たくま)宗直を守護に補任した結果,幕府方の守護宇都宮冬綱とともに2人の守護が併立することになった。…

【筑前国】より

…範氏はたびたび帰京を幕府に願い出たが許されなかった。49年(正平4∥貞和5)の足利直冬の下向後,九州は幕府方,宮方,直冬方に3分されたが,直冬は知行宛行・安堵を通して国人層の結集を図り,少弐頼尚も直冬に味方するなど,当国では直冬方が優勢であった。51年(正平6∥観応2)ころ,少弐頼尚は守護職を室町幕府から解任され,かわって一色直氏が補任された。…

【備後国】より

…旧国名。現在の広島県東部。
【古代】
 山陽道に属する上国(《延喜式》)。古く吉備(きび)国といわれた地域の一部で,大化改新後に吉備総領が任ぜられたが,天武・持統朝ごろ分割されて,備前,備中,備後国が成立した。697年(文武1)閏12月には正史に備前,備中という国名が記されているので,当然備後国も存在したはずである。国府は《和名類聚抄》には葦田(あしだ)郡にありと記され,現在の広島県府中市域の旧国府村大字府川の地にあったと考えられる。…

【山名氏】より

…南北朝・室町時代の守護大名(図)。室町幕府の四職(ししき)家の一つ。上野国山名郷を名字の地とする新田氏一族(義重の子義範が祖)であるが,元弘の乱で山名政氏,山名時氏父子は足利高氏(尊氏)に従い活躍する。1337年(延元2∥建武4)には時氏が伯耆の守護職に補任され,名和氏ら南朝勢力を一掃する。観応の擾乱(かんのうのじようらん)期には時氏は直義(ただよし)党に属して分国伯耆に拠り,足利直義の養子直冬(ただふゆ)を盟主とし,文和年間(1352‐56)には2度にわたって南朝軍として京都に攻め込み,一時占領する。…

※「足利直冬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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