足助城(読み)あすけじょう

日本の城がわかる事典 「足助城」の解説

あすけじょう【足助城】

愛知県豊田市(旧東加茂郡足助町)にあった城郭。正式な名称は真弓山城である。旧足助町の市街を見下ろす真弓山(標高301m)の山頂を本丸とし、四方に張り出した尾根を利用して築かれた連郭式の城郭である。東海地方の紅葉の名所として有名な香嵐渓(こうらんけい)の中にある。臼木ヶ峯(うすきがみね)城、大観音(だいかんのん)城、城山(しろやま)城、成瀬(なるせ)城、黍生(きびゅう)城とともに、足助氏の飯盛山(いいもりやま)城(豊田市)の支城だった城で、本城・支城を合わせて足助七城とよばれる。足助城は鎌倉時代に足助氏が築城した城館と考えられていたが、発掘調査の結果、15世紀以降に鈴木氏が築城した城であると考えられるようになった。戦国時代以降、三河の松平氏(のちの徳川氏)、駿河の今川氏、甲斐の武田氏などによって攻められた。城主の鈴木氏は16世紀に入ると岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返し、1564年(永禄7)以降は、松平・徳川氏に臣従して高天神城(静岡県掛川市)の戦いなどで武勲をあげた。1571年(元亀2)、甲斐の武田信玄上洛をめざして奥三河に侵攻したが、その際、足助城も落城して武田方の城となった。武田氏は同城を松山城と命名し、城代を置いた。信玄の死後の1573年(天正1)、徳川家康嫡男の信康に命じて足助城を奪還させ、旧城主鈴木康重を足助城に置いた。1590年(天正18)、家康が関東に移封されると、城主の康重は家康に従って足助城を去り、同城は廃城となった。現在、城域の一部が城址公園(城跡公園足助城)として整備され、1993年(平成5)には発掘調査に基づいて高櫓(たかやぐら)、長屋物見台などの往時の建造物が忠実に復元された。名鉄三河線西中金駅からバス約20分、または東岡崎駅からバス約70分で香嵐渓一の谷口下車、徒歩約40分。◇真弓山城、松山城、足助松山城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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