輪王寺(読み)リンノウジ

デジタル大辞泉 「輪王寺」の意味・読み・例文・類語

りんのう‐じ〔リンワウ‐〕【輪王寺】

栃木県日光市にある天台宗の門跡寺院。山号は、日光山。天平神護2年(766)勝道が開創。四本竜寺(のちの満願寺)と称した。慶長18年(1613)天海が入寺、徳川家康の墓所として東照宮を造営。のち、後水尾天皇の皇子守澄法親王が初代門跡となり輪王寺と改称。明治4年(1871)神仏分離令により東照宮と分かれた。大猷院霊廟の本殿・相の間・拝殿は国宝。平成11年(1999)「日光の社寺」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。日光門跡

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精選版 日本国語大辞典 「輪王寺」の意味・読み・例文・類語

りんのう‐じ リンワウ‥【輪王寺】

[一] 宮城県仙台市青葉区北山にある曹洞宗の寺。山号は金剛宝山。嘉吉元年(一四四一)開創。開基は伊達持宗。開山は太庵梵守。江戸時代は東奥八百八か寺の総録司。
[二] 栃木県日光市山内にある天台宗の門跡寺院。山号は日光山。天平神護二年(七六六)勝道が開創し、四本龍寺と称した。弘仁元年(八一〇)満願寺の勅号を賜わり、嘉祥元年(八四八)円仁が入山、一乗実相院とも称した。のち衰微し、慶長一八年(一六一三)天海が再興。徳川家康の墓所となり、東照宮を造営し、守澄法親王が初代の門跡となり、明暦元年(一六五五)現名を与えられる。明治四年(一八七一神仏分離で東照宮・二荒山(ふたらさん)神社が独立し満願寺の旧号を称したが、同一六年に復称。大猷院霊廟三棟および所蔵する大般涅槃経集解(だいはつねはんぎょうしゅうげ)五九巻は国宝。
[三] 東京都台東区上野公園にある天台宗の寺。もと東叡山寛永寺の本坊で久遠寿院と称した。明暦元年(一六五五)現名を与えられる。守澄法親王入寺以来門跡となる。明治維新に彰義隊がたてこもり焼失。明治二七年(一八九四)再建。

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日本歴史地名大系 「輪王寺」の解説

輪王寺
りんのうじ

[現在地名]日光市山内

恒例こうれい山の南麓にある。日光を号とする天台宗の門跡寺院。支院一五ヵ院を有し、輪王寺一山と総称する。

〔日光開山〕

天平神護二年(七六六)勝道の開山(補陀洛山建立修行日記)。勝道は下野国芳賀はが郡の出身で俗姓は若田氏。天平宝字五年(七六一)二七歳の時、下野薬師寺(現河内郡南河内町)に赴き鑑真の弟子如宝に師事。初め厳朝と名乗り、のち勝道と改めた。天平神護元年九月、薬師寺を出て弟子たちとともに日光に向かい、深沙王の加護を受けて大谷だいや川を渡った。これが山菅の蛇やますげのじや(神橋)の伝説で、橋北岸にはのちに深沙王じんじやおう堂が建てられている。北岸に草庵を結んだ勝道は東方に紫雲の立上るのをみて、翌年その地に四本龍しほんりゆう寺を建立した(同書)。その後勝道は神護景雲元年(七六七)女峰によほう山に登って頂上に女峰権現を勧請、さらに西の太郎たろう山に登り頂上に慈眼太郎明神を祀った。天応二年(七八二)三月、弟子とともに二荒山(男体山)の登攀に成功(「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序」性霊集)、山頂に二荒山権現を祀り、二荒山(日光)三社大権現が形成された(「補陀洛山縁起」輪王寺蔵)。また中禅寺ちゆうぜんじ湖畔で修行し、立木たちき観音堂(神宮寺のち中禅寺)日輪にちりん寺などを建立、大同三年(八〇八)四本龍寺の南に接して社を建て、二荒山権現(のちの本宮神社)を勧請した(同縁起)。弘仁元年(八一〇)には天皇から満願まんがん寺の号を許されたと伝えるが、「日光座主御歴代」は弘仁末年教旻の代のこととしている。同八年三月一日勝道は八三歳で没。その意志に従い四本龍寺の北、仏岩ほとけいわ東麓の離怖畏所りふいしよ、現開山堂の裏の墓地に葬られ、また上野こうずけ島と中禅寺湖畔菖蒲しようぶヶ浜に近い瑠璃るりつぼとに葬られていると伝える(「補陀洛山建立修行日記」など)。勝道の宗旨は明らかでなく、華厳けごん滝を発見し命名したとされることや、「華厳精舎」を創建したということから、華厳宗ではないかと推測する説もある(本朝高僧伝)

勝道ののち高弟で従弟の教旻が跡を継いだ(日光座主御歴代)。同じく勝道従弟の道珍もその高弟である。道珍は日光開創の記録「補陀洛山建立修行日記」「日光山滝尾建立草創日記」を撰したと伝えるが、事実かどうかは疑わしい。教旻は弘仁年中大千度行法を修したという(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。この法は日光の大小の堂社を巡拝する古法で、無言の行として知られ、近世まで伝えられた。また「満願寺三月会日記」によると、弘仁一二年には六月の神宮会(のちの二荒山神社弥生祭)を三月(現在四月一七日)に改めている。

輪王寺
りんのうじ

[現在地名]仙台市北山一丁目

資福しふく寺の西にあり、曹洞宗。金剛宝山と号し、本尊は釈迦牟尼仏。もと耕雲こううん(現新潟県村上市)末。嘉吉元年(一四四一)伊達氏一一代持宗が祖母蘭庭尼(足利義満夫人の妹)の願いを受け、伊達だて梁川やながわ(現福島県伊達郡梁川町)に禅寺を建立、耕雲寺六世の太庵梵守を開山とした。翌二年蘭庭尼が没すると、持宗は五男を出家させ、禅尼の菩提を弔わせ、輪王寺三世とした。また足利義教から「金剛宝山輪王禅寺」の後花園天皇宸筆額面(後年焼失)を受けた。

輪王寺
りんのうじ

[現在地名]米沢市福田町二丁目

金剛峯山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。伊達持宗が祖母蘭庭の願いにより嘉吉元年(一四四一)奥州伊達だて梁川やながわ(現福島県伊達郡梁川町)に一堂を建立し、梵守を開山とした。以降伊達氏菩提寺となる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「輪王寺」の意味・わかりやすい解説

輪王寺
りんのうじ

栃木県日光市山内にある天台宗の門跡(もんぜき)寺院。766年(天平神護2)勝道上人(しょうどうしょうにん)により開創された四本竜寺(しほんりゅうじ)に始まる。810年(弘仁1)に満願寺の号を受け、820年には空海、848年(嘉祥1)には円仁(えんにん)がきて諸堂が建立され、山内は大いに栄えたと伝えられる。のちやや衰退したが、源頼朝(よりとも)の寺領の寄進や北条時頼(ときより)の帰信など鎌倉幕府の庇護(ひご)を受け、1308年(延慶1)には仁澄(にんちょう)親王が当山第27世となり、皇室との関係も密接となった。最盛時には僧坊300余といわれたが、足利尊氏(あしかがたかうじ)の兵乱に巻き込まれ、さらに豊臣(とよとみ)秀吉による寺領没収などで、大坊が9か寺残されるのみとなった。

 慶長(けいちょう)年間(1596~1615)天海(てんかい)が当山に入って以来ふたたび興隆し、徳川家康の帰依(きえ)も厚く寺領2000余石を受けた。家康没後、秀忠(ひでただ)は父家康の霊廟(れいびょう)をつくり、1617年(元和3)久能山(くのうざん)から霊柩(れいきゅう)を迎えて改葬し、東照大権現(だいごんげん)とした。以来徳川幕府と特別な関係を保ち、諸大名の寄進も行われて、家光(いえみつ)の東照宮改築をはじめ諸堂がしだいに完備した。1655年(明暦1)には輪王寺の号を受け、後水尾(ごみずのお)天皇の皇子守澄(しゅちょう)法親王が初代の門跡となり、寛永(かんえい)寺門跡、天台座主(ざす)をも兼ね、明治に至るまで歴代法親王は管領宮(かんりょうのみや)として仏教界に君臨した。1871年(明治4)神仏分離令で、日光東照宮、二荒山(ふたらさん)神社が独立し、寺は満願寺の旧名を称したが、1885年日光山輪王寺門跡号を復活した。以後、三仏堂(国重文)を本堂とする。家光の霊を祀(まつ)る大猷院霊廟(だいゆういんれいびょう)の本殿・相の間・拝殿の3棟が国宝に、同じく大猷院霊廟の唐門・皇嘉門など19棟、また常行(じょうぎょう)堂、慈眼(じげん)堂、特徴ある相輪橖(そうりんとう)などが国重要文化財に指定されている。1961年(昭和36)焼失した鳴竜(なきりゅう)で有名な薬師堂は68年復興された。寺宝には『大般涅槃経集解(だいはつねはんぎょうしゅうげ)』(国宝)、東照権現像八幅、千手観音(せんじゅかんのん)像(ともに国重文)などや工芸品、古書を多く蔵する。4月2日の強飯(ごうはん)式、5月17日の延年の舞は有名。

[塩入良道]

『山本健吉他文、名鏡勝朗写真『古寺巡礼 東国2 輪王寺』(1981・淡交社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「輪王寺」の意味・わかりやすい解説

輪王寺 (りんのうじ)

栃木県日光市にある天台宗の寺。山号は日光山。日光門跡,御本坊とも称した。日光山の山岳信仰の歴史は古く,寺も天平のころ勝道が開創した四本竜寺に始まると伝える。寺名はその後四本竜寺から満願寺に変わり,院号も一乗実相院,光明院へと変わった。1613年(慶長18)天海が中興した。17年(元和3)東照大権現の号を贈られた徳川家康の廟が建てられ,36年(寛永13)には大造営が行われた(日光東照宮)。これより先,1621年に本坊が造営され,東照宮の別当寺としての役割を果たすこととなった。54年(承応3)後水尾天皇の皇子守澄法親王が江戸寛永寺とともに当山を兼帯,55年(明暦1)輪王寺宮の号を賜り,以後門跡寺院として延暦寺や寛永寺と並ぶ天台宗の有力三ヵ寺の一つとなった。しかし,1868年(明治1)輪王寺宮門跡は廃止され,71年(明治4)神仏分離政策によって日光山は二荒山(ふたらさん)神社,東照宮および満願寺に分離された。僧侶の東照宮神官としての任務は禁止され,各院・各坊はすべて併合されて,満願寺だけが存在を許された。このとき多くの仏像,経典が灰燼(かいじん)に帰した。その後85年,再度門跡号が許され,日光山輪王寺となった。
執筆者: 寺宝として,《大般涅槃経集解(だいはつねはんぎようしゆうげ)》59巻(国宝)をはじめ,《東照権現像》,住ノ江蒔絵硯箱,紺紙金泥《阿弥陀経》など,絵画,工芸,書跡にわたる多数の重要文化財を有する。彫刻には,立木仏で知られる木造千手観音像(重要文化財,平安時代)があり,徳川家光をまつる大猷院霊廟(だいゆういんれいびよう)(国宝。1653)は東照宮と同じく権現造で,全体に蒔絵,金箔を施した極彩色の贅を尽くした建物である。本堂三仏堂は正保4年(1647)の棟木銘をもち,天台本堂の古制を伝える大建築である。そのほか常行堂,法華堂,慈眼堂なども江戸期の建築で重要文化財に指定されている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「輪王寺」の意味・わかりやすい解説

輪王寺【りんのうじ】

栃木県日光市山内にある天台宗の寺院。奈良時代勝道上人の開基と伝える。慶長年間(1596年―1615年)に天海が中興,徳川家康の没後東照宮が建てられ,さらに家光の廟である大猷院が建てられて寺勢があがった。東照宮と同様に本殿,相之間,拝殿を中心とした黒と朱の対比の美しい建物で,江戸初期の代表的建築。ほかに国宝の大般涅槃経集解,重要文化財の住ノ江蒔絵手筥,鉄多宝塔,大火舎香炉などがある。なお法親王が上野の寛永寺とともに兼帯し,輪王寺宮の勅号を受け,門跡寺であった。東照宮,二荒山神社とともに1999年世界文化遺産に登録。→強飯(ごうはん)式
→関連項目日光[市]日光東照宮

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「輪王寺」の意味・わかりやすい解説

輪王寺
りんのうじ

栃木県日光市山内にある天台宗の寺。山号は日光山。神護景雲1 (767) 年勝道上人の創建。初め四本竜寺と号し,のち空海円仁らが入山した。空海は二荒 (ふたら。男体山の別称) を音読して日光と改めた。円仁は天台宗に改宗させ,満願寺の号のもとに大いに栄えて,延暦寺に次ぐ盛況であったが,豊臣秀吉に寺領を奪われて衰えた。天海僧正が別当となり江戸幕府の保護を得て再興し,元和2 (1616) 年徳川家康の遺体を当地に葬って,霊廟東照宮を造営してから再び繁栄した。守澄法親王を仰いで輪王寺宮の名を賜わり門跡を称し,上野の寛永寺を兼摂した。明治の神仏分離で東照宮,二荒山神社と輪王寺に分離された。三仏堂,常行堂,慈眼堂などの諸堂があり,徳川家光を葬った大猷院霊廟は国宝。 1999年東照宮,二荒山神社とともに世界遺産の文化遺産に登録。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「輪王寺」の解説

輪王寺
りんのうじ

東京都台東区の上野公園にある東叡山寛永寺の本坊。当寺3世の後水尾天皇の皇子守澄(しゅちょう)入道親王のとき,日光に輪王寺の寺号が与えられ,親王が日光輪王寺門跡と寛永寺の住持を兼ね,輪王寺宮と号したのが始まり。以後代々の輪王寺宮は寛永寺に住み,江戸と日光を往復して両寺を統轄した。1869年(明治2)輪王寺の号は廃されたが,85年日光・東叡山の両所に寺号が復活され,寛永寺と別に門跡寺院として輪王寺がたてられた。

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事典・日本の観光資源 「輪王寺」の解説

輪王寺

(宮城県仙台市)
ふるさとみやぎ文化百選 建造物とまちなみ編」指定の観光名所。

輪王寺

(栃木県日光市)
天台宗三大本山」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「輪王寺」の解説

輪王(りんのう)寺

宮城県仙台市青葉区にある寺院。曹洞宗。山号は金剛宝山。本尊は釈迦牟尼仏。1441年創建。

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世界大百科事典(旧版)内の輪王寺の言及

【摩多羅神】より

…神像は烏帽子・狩衣装束で鼓をもち唱歌する壮年の姿で,笹を採物にして舞う2童子を従える図像が普通である。比叡山をはじめ,法勝寺,多武峰(とうのみね)妙楽寺,日光輪王寺,出雲鰐淵寺など各地方の中心的天台寺院の常行堂の後戸(うしろど)にまつられた。その祭祀は,たとえば輪王寺の《常行堂故実双紙》によると,修正会と結合した常行三昧のなかで,この神を勧請して延年が行われ,七星をかたどる翁面を出し,古猿楽の姿を伝える種々の芸能が演ぜられた。…

※「輪王寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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