轟貝塚(読み)とどろきかいづか

日本歴史地名大系 「轟貝塚」の解説

轟貝塚
とどろきかいづか

[現在地名]宇土市宮庄町 須崎

宇土半島の基部の山塊から東に延びる丘陵の先端にある縄文時代の貝塚。轟貝塚として有名なのは須崎すざきであるが、水田を隔て東側の西岡台にしおかだいの北西端にも良好な貝層があり、この二地点を総称して轟貝塚とよぶ。大正八年(一九一九)発掘調査が行われ一八体の人骨と多くの遺物出土した。九州の古期の縄文土器の標式遺跡として紹介され、昭和三三年(一九五八)の発掘では出土土器が轟A―D式に細分された。

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改訂新版 世界大百科事典 「轟貝塚」の意味・わかりやすい解説

轟貝塚 (とどろきかいづか)

熊本県宇土市宮庄町にある縄文時代の貝塚。宇土半島基部の低台地端にある。1919年以来66年まで4次にわたって調査が行われた。貝塚は,マガキ,ハイガイ,アサリを主体とする内湾性貝塚であり,狭い低地を隔てた対岸の西岡台地区にも一連の貝塚があり,中期後期の貝層が検出されている。出土土器は,古くから轟式土器として縄文時代前期に位置づけられていたが,松本雅明によって轟A式・B式(早期末~前期初頭),轟C式・D式(前期後半)の4型式に分類された。地文として貝殻条痕を残すが,A式は綾杉状に条痕文施し,B式は口縁下に粘土帯を数条貼付し,C式は条痕地に数条の沈線により曲線文を施し,D式は2本単位施文具の沈線,連続刺突によって横位の弧線を施す。ほかに中・後期の並木式,阿高式,北久根山式土器が出土するが,遺跡の主体は西岡台地区に移る。発掘により多数の埋葬人骨が検出されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「轟貝塚」の意味・わかりやすい解説

轟貝塚
とどろきかいづか

熊本県宇土(うと)市宮庄(みやのしょう)(旧轟村)にある貝塚。縄文文化早期から晩期まで若干地域を異にし断続して形成された大貝塚。1917年(大正6)鈴木文太郎が古人骨を発掘して以後、19年には浜田耕作清野謙次(きよけんじ)が発掘調査し18体の人骨を、続いて20年には長谷部言人(はせべことんど)が約20体の人骨を発掘した。これらの人骨は、鳥居龍蔵(りゅうぞう)、小金井良精(こがねいよしきよ)らの縄文文化人アイヌ説に対する形質人類学的な批判が出されるための基礎的資料となった。66年(昭和41)慶応義塾大学が中心となり大規模な発掘調査を実施し、イモガイとアマオブネガイ製の首飾りをつけた縄文早期末の女性人骨などを発掘した。

[江坂輝彌]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「轟貝塚」の意味・わかりやすい解説

轟貝塚
とどろきかいづか

熊本県宇土市宮庄町にある縄文時代の貝塚。縄文早期の押型文土器から曾畑式,轟式,中期の阿高式を経て後期,晩期までの土器を出す遺跡。大正年間に鈴木文太郎,浜田耕作清野謙次長谷部言人らが多数の人骨を発掘した。貝層は上のほうにかきが多く,下のほうには灰貝の多いところがあり,中期の土器と前期の土器が層位的に差をもって出土している。土器は貝殻条痕文が施されている前期の轟式土器を主体とする。石器としては石鏃,石匕,石斧,石錐,石錘がみられ,サヌカイト (讃岐岩) 製が多い。牙製の垂飾,貝輪も出土。

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