農事暦(読み)のうじれき

改訂新版 世界大百科事典 「農事暦」の意味・わかりやすい解説

農事暦 (のうじれき)

1年を周期とする農業を営むために,四季それぞれの時期における農作業やそれにかかわる年中行事を,月日を追って系統的に定めた暦法または暦書。

古代・中世に,農事のための暦書が民間に存在した形跡は,今のところ見当たらないが,季節の移変りに従って,月日や干支や気候変動により,年中恒例の農村諸行事や,さまざまな農作業の種類と手順を定めた慣習的な暦法が各地域で行われていたことはたしかである。それらは荘園文書や公家日記,文学作品,社寺権門領主らの年中行事などの諸記録,地方に伝わる古い民俗的伝統行事などによって,断片的あるいは間接的にうかがうことができる。

 それらによると,中世の農民は正月元三日(がんざんにち)(元旦のこと)の節会(せちえ)ののち,初山入りをして農事始めの柴を刈り,初子(はつね)の日に〈初子の忌(いみ)〉と称して野遊びを行い,カヤを刈って蚕箙(かいこえびら)をこしらえ,また神前で農作の予祝神事である田遊を行う。2月には荒田打ちが始まり,同時に野らに村人が集まって用水の水上を祈る仲春の田の神祭が催され,その水を引いて播種した苗代にしめ(注連)が張られた。3月はなお荒田打ちが続き,それと並行して田植のための用水の分水が準備され,他方,農家の内では主婦の手による春蚕の蚕養(こがい)が行われる。4月になって垣や山野の白いウノハナが満開になるころ,田打ちを終えてそれにしめを下し,また麦刈りを終えた各農家では,垣のウノハナに象徴される家の神,氏神をまつる4月神祭をとり行い,これを農事の節目として田植に入る。鎮守の神田や領主の佃(つくだ)の大田植に始まる田植は,〈ゆい〉で雇われた早乙女が田主(たあるじ)の田楽の囃子(はやし)に乗って行い,5月にカッコウが鳴き渡るころ,その盛りを迎える。またこの季節は養蚕の繭の収穫,糸綿作りの時期でもある。田植が終わると〈さなぶり〉の休みがあるが,その前後の夏3ヵ月はなお田の水の見回り,草取り,秋畠耕作とまき付け,焼畑の火入れと播種など多忙な〈農時〉で,領主が百姓を私に召し使ってはならない時期とされた。夏の終りから秋の初めは,旱損(かんそん),風損,水損や虫害の起こる季節であって,そのための祈雨や風祭など災害を防ぐ仏神事が催される。秋8月には早米(はやまい)(早稲(わせ))が刈り取られ,初穂を神仏や領主に供える行事があり,次いで中稲(なかて),晩稲(おくて)と収穫期が続き,秋から冬にかけて稲の脱穀と俵装が行われる。収穫がすべて終わったのち,それを祝う神事である11月神祭があり,田の刈りあとは,寡婦の落穂拾いや牛馬の放飼いなどに開放される。

 以上のような年間の稲作,畠作,蚕養などのおもな農事の合間に,山野河海におけるさまざまな産物の採取やその調理・加工,家畜の飼育などの作業がはさまり,さらに領主が行う神事などの儀礼,勧農検注・公事夫役(くじぶやく)・収納の沙汰などがその時々に組み込まれ,それらの総体が中世農民の農事暦をかたちづくっていたのである。
執筆者:

近世には上層農民がみずからの農事体験を記した農書が数多く著されたが,農事暦はその農書類に多くみられる。日本の農書の嚆矢(こうし)といわれる《清良記》の巻七にも〈四季作物種子取りの事〉の条がある。近世には農業の発展にともなって農作業が複雑化し,それぞれの地域の条件も異なり,300年間の変化の度合も大きいので,一般化して示すことはできない。ここでは,一例として,《耕稼春秋》の第1巻〈耕稼年中行事〉に記されている農事暦の概要を月別(陰暦)に示す。これは加賀国(現,石川県)の大庄屋であった土屋又三郎の著作で1707年(宝永4)の自序があり,近世前期の北陸地方のありさまを示している。

(1)1月 4日より農耕の準備を開始。わら仕事など。中旬~下旬に小道具作り。

(2)2月 上旬から田の打起しを始める。中旬,畑にヒエ,アサなどの種子をまく。山方の者は町へ炭やまきを売りに出る。下旬,苗代の準備をする。

(3)3月 上旬,田の荒起しはたいがいすませてしまう。荒地畑(貢租免除)を起耕する。中旬,田の砕土をし,肥料を配る。畑に大豆の種子をまき,サトイモの種芋を植える。下旬,田のあぜを塗り,そこにヒエをまく。山方では刈草を田に入れる。女は孵化した蚕の飼育にかかる。

(4)4月 上旬,田に肥料をまきちらす。上旬~下旬に田植をする。中旬,ナタネを刈り取り,下旬に脱穀。山方では畑を耕起し,アワ,ヒエ,大豆などをまく。4月中旬~5月上旬に焼畑をする。

(5)5月 上旬,早稲の一番草をとる。稲の株間を中耕する。中旬,表田の一番草をとる。早稲へ追肥を施す。下旬,表田の追肥を施す。山方では炭焼きを始め,雪の降るころまで続ける。蚕の飼育を始める。

(6)6月 上旬,表田の二番除草にかかる。中旬,表田へ2回目の追肥。アサを刈り,ウリを出荷する。アサのあとにカブを植える。下旬,表田の三番草取りのあと3回目の追肥を施す。秋どり大根をまく。女はアサ糸をとる。山方では畑の草取りをし,中旬~下旬にソバの焼畑を焼く。

(7)7月 上旬,畑ヒエを刈り,そのあとにソバあるいは大根をまく。中旬,アサ畑を起耕する。秋どり菜っ葉をまく。下旬,山やあぜの柴を刈る。山方では中旬ごろまでにアサを刈り,あとに麦をまく。

(8)8月 上旬,早稲を刈り,そのあとにナタネをまく。田の水口を開けて水をすべて落とす。中旬,大唐稲を刈る。早生麦をまく。下旬,あぜ豆の葉をとる。この葉は大唐稲の飯に混ぜて食べる。山方では中旬までに麦をまき,牛の飼料となる草刈りをして冬に備える。アワ,ヒエなどの畑作物を刈り取る。

(9)9月 上旬,あぜと畑の大豆やアズキを抜き取る。田の水を落として干し,麦をまく。中旬は中稲の刈取りの最盛期。刈った稲を干す。下旬,晩稲を刈り,中稲をにお(稲積)にする。女や子どもは田に出て落穂を拾う。ソバを刈り,アズキを脱穀する。山方では畑作物の収穫と調整を終える。

(10)10月 大豆と稲の脱穀・もみすりをする。ナタネへの追肥。山方では炭,まき,カヤなどを山から運び出しておく。

(11)11月 米の脱穀・調製と年貢米の計量。山方では炭や小枝を町に売りに出る。

(12)12月 年貢米納入後,男は冬の副業にむしろ,縄,こもを作る。また翌年使用する米俵や牛馬のくつ,わらじなどのわら製品を作る。女はカラムシを績(う)んで洗い,1~2月に布を織る。山方では柴やまきなどを町へ売りに出る。

 《耕稼春秋》の舞台となった金沢周辺は,加賀平野の水田地帯である。その地域性を反映して稲作を中心に,麦,雑穀や城下町を対象とした野菜類をとり入れた輪作が行われていた。それは土地を早稲田,表田(裏作をしていなかった田),物跡田(麦,ナタネを作った田)に区分して利用し,(1)早稲-蔬菜・ナタネ・大麦-大根・大豆・中稲,(2)中稲-麦-蔬菜・豆,(3)アサ-大根・中稲,という3種の作付方式を2年周期で循環させるものだった。いくつもの作物を並行して栽培するため,農事暦も複雑に組み立てられていた。二毛作や中・晩稲の作付面積が増えると,地力の減退を防ぐために多量の肥料を必要とする。表田には3回もの追肥が施されていた。このような稲作の集約化によって収穫が増加し,それが小農の自立を促進した。《耕稼春秋》には家族労働による自作農を対象とした農事暦が示されている。また同じ地域でも山方の農作業は里方とは異なる。雪の消える4月ごろから常畑や焼畑に麦,アワ,ヒエ,ソバ,豆などの畑作物を栽培し,9月に収穫する。あとの半年は炭やまきを町方へ売ったり,女はカラムシで布を織って現金収入にした。

 近世の農耕後進地では,自作農のほかに奉公人を使用した地主の大規模経営や小作農の自給的零細経営も存在した。経営形態による農事暦は当然異なっていた。先進地では貨幣経済を反映した米麦以外の商品作物経営が展開した。天保期(1830-44),河内地方(現,大阪府)の農業を示した《家業伝》によると,稲作と並行して綿作が大きな比重を占めていた。近世の農業経営が地域の特色を生かすようになると,地域や階層によって農事暦もさまざまに多様化した。
執筆者:

農事暦すなわち各月にそってその月になすべき農仕事を記述したものを中国では〈月令(がつりよう)〉類の中に入れている。先秦の月令や《夏小正》《礼記(らいき)》月令などには12ヵ月に関連する天象,物候,農耕,狩猟のことが書かれているが,天の運行に従う四時の政治の基準を示す立場のものである。月令が年間の農作業を主とするようになって農事暦的性格を強めたのは,後漢の豪族で荘園主でもあった崔寔(さいしよく)が,荘園経営の立場から荘園内の人々のなすべき仕事を各月ごとにまとめた《四民月令(しみんげつれい)》からということができよう。以後,各時代の農事暦をあげれば,《玉燭宝典》(隋,杜台卿),《四時纂要》(唐末五代,韓顎),《農桑衣食撮要》(元,魯明善),《養余月令》(明,戴羲),《農圃便覧》(清,丁宜曾)などがある。ただ,農事暦的農書にも,書全体が月令形式になっているものと,占候などの個所に部分的に月令形式をとっているものとの2種がある。《四民月令》の各月の中から一節ずつ抜粋して紹介すれば以下のごとくである。

(1)1月 朔より晦までに竹,漆,桐,梓,松,柏その他の雑木を移植するがよく,ただ果実のなる木は15日までに移植するがよい。(中略)2月末までに春麦,豆を種(ま)くがよい。瓜,瓠,芥,葵,,大蔥,小蔥,蓼,蘇,牧宿,雑蒜,芋を種くがよい。,芥は株分け(移植のことか)するがよい。麻田には肥料を施すがよい。

(2)2月 凍結していた土地がゆるんだら,美田,緩土の田,河渚の小さい田(水田か)を菑(す)くがよい。稙禾(はやうえのあわ),大豆,苴麻,胡麻を種くがよい。

(3)3月 この月はまだ農事に閑があるから,溝瀆を浚渫(しゆんせつ)し,牆屋を葺いて雨を待つ。門戸を修理し防備を整えて,端境期の食糧不足から起こる集団的な農荒しを禦(ふせ)ぐ。

(4)4月 蚕が繭作りの態勢に入る。ちょうど雨が降れば黍(これが早まきの時期),禾および大豆,小豆,胡麻を種くがよい。

(5)5月 夏至後20日までに稲と藍を移植するがよい。麦田を菑き茭芻を刈るがよい。麦がすでに収穫ずみだから糒を作って出入りのときの糧とする。そろそろ雨季になるから米,穀,薪,炭を貯蔵し,交通途絶の場合に備える。

(6)6月 この月の6日,葵を種くがよい。中伏(夏至後第4の庚)後,冬葵を種くがよい。蕪菁,冬藍,小蒜を種くがよい。大蔥を移植するがよい。灰を焼いて青や紺の雑色を染めるがよい。

(7)7月 大豆,小豆を売り出し麦を買い入れるがよい。縑,練を収める。

(8)8月 瓠を割って実を蓄える(燭の原料か),地黄を干す。末都を作る。萑葦と芻茭を刈る。韭菁を収穫してつきかためる(擣韲)。葵を干し豆藿を収める。大蒜,小蒜,芥を種く。

(9)9月 こなし場,田圃を治め,囷庫(きんこ)(倉庫)を塗りこめ,竇窖(とうこう)(あなぐら)を修理する。兵器を整備し戦射を習って,寒凍,飢餓の寇盗を禦ぐ。九族の孤児,寡婦,老人,病気で自活できない者の面倒をみる。財物の厚薄,負担の軽重を平等にし皆寒冬を乗り越えさす。

(10)10月 築垣,牆を高くし北の窓を塞(ふさ)ぎ,戸口を塗る。至急禾稼(かか)を取入れし,収穫物を畑に残さない。蕪菁を収め,瓜を貯蔵するがよい。

(11)11月 硯の水が凍る。幼童に《孝経》《論語》の篇章を読ましめ,小学に入れる。

(12)12月 農具を整備し耕牛を休養させ,農事担当者を割り当て,来年の農作業の始まるのを待つ。
執筆者:

古代ギリシアの農耕,牧畜,航海によって生活する者たちの間では,鳥獣の営み,植物の生育と凋落,早朝・夕刻に地平線に昇り沈みするすばるやオリオンなどの星座などによって四季の推移を知り,また月の満ち欠けによって月や日を数えることが太古からの生活の知恵であり,それぞれの数え方が口碑として継承されていたことは疑いない。そのような生活者の〈暦〉そのものは今日伝存していないが,農事暦の内容を文学作品の中に大幅にとり入れて勤勉の教訓を垂れているものが,ヘシオドスの《農と暦》である。ここでは麦作を中心とする休耕田農業が,秋の耕作,播種,冬の夜仕事,春のブドウの剪定,初夏の収穫の順で,四季の目印に従って告げられ,勤勉な農夫の心得が説かれている。他方,牧畜にかかわる仕事の日取りはこの部分では扱われず,《農と暦》の最後に付記されている〈吉日と忌日〉の表の中に,他の行事とともに指示されている。《農と暦》が,いわゆる実用的な農事暦と異なるのは,第1にこれが農事の手引であると同程度に勤勉奨励の書である点と,第2に実用的農事暦であれば必須の祭礼や祭日の指示がここには欠落している点であろう。また《農と暦》の季節の目印がギリシアのどの地域の農事に最も適していたものかも不明である。古代ギリシアにおける農事暦的な基礎知識は一般市民の共有財であると同時に,ヒッポクラテスなどの医学者が風土病や季節ごとの変り目に生ずる疾患を扱う場合にも重要な資料となっている。また前5世紀末の歴史家トゥキュディデスの編年体(《戦史》)の準拠する四季の巡回も,春の穀物生育過程(〈麦の穂の熟れたころ〉のように)によっているが,これは戦争もまた農事暦を顧みて実行されていたことを告げている。

 初期のローマにも農事暦が存在していたことは,大カトー(前2世紀)の《農業論》の随所にうかがわれる。ここには四季の目印の指定はないが四季ごとの農事と祭礼の次第が詳記されている。しかし共和政末期の大学者ウァロの《農業論》の中には古代の農事暦を語り直している長い章節部分があり,これは太陽暦と太陰暦の両方を用い,自然界の四季の目印を整理し日数なども詳記して体裁を整えたものである。〈これを明記し農場にはりつけて,仕事の手順とするがよい〉と記されているところからみても,ウァロの暦は実用に耐えうるものであったに違いない。古代イタリアの農夫たちが用いた農事暦は,後1世紀ごろの碑文として伝えられるが,これは完全に暦としての体裁を整えており,各月の名称,日数,昼夜の時間,太陽の黄道十二宮上の位置,守護神,農事,もろもろの月例祭などの必要事項いっさいを詳記したものとなっている。ローマの農業論は大カトー,ウァロなどの詳記するところとなっているが,農事暦そのものを枠組みにした文学作品は伝わっていない。ウェルギリウスの《農耕詩》には暦についてはわずかな言及が含まれているにすぎず,オウィディウスの《祭暦》も神話,伝説の宝庫ではあるものの農事とはかかわりが薄い。
執筆者:

近世

ヨーロッパの農事暦は地理上の位置の南・北,農耕・牧畜地域の相違などでかなり異なるが,以下,16世紀ごろまでのイングランドを中心にその概略を記す。新年度は収穫作業をすべて終えたミカエル祭Michaelmas(9月29日)から始まる。現在でもこの慣習は踏襲されている。この日以降,収穫を終えた畑で家畜の刈株放牧が始まる。10月の農作業は前年度の休閑畑の第3回目(最後)の犂耕と施肥,次いで小麦,ライムギの播種である。これらの穀物はこの時期に播種されるため冬穀と呼ばれる。10月末,遅くも聖マルティン祭(11月11日)までに冬穀の播種を終え,畑の周囲に放牧中の家畜の侵入を防ぐ垣を作る。冬穀播種のあと,翌年の春穀畑を犂耕する。万聖節(11月1日)で始まる11月は夏の間放牧し,肥育した家畜を畜舎に追い込むときである。農民の採草畑は少なく,家畜の冬季飼料用の干し草を十分に準備することができなかったため,必要最小限の家畜を残して屠殺した。この月,農民は豚をオークの森に追い込み,そのどんぐりで肥育した。穀物の生産性がきわめて低い北ヨーロッパでは,どんぐりで肥育できる豚は貴重な食料で,塩漬にして冬の食料として貯蔵した。このほか,農民はクルミやハシバミの実を拾い,まき,泥炭などを納屋に収めて厳冬季を迎える準備を行った。待降節から聖燭祭(2月2日)まで,クリスマスをはさんで,農民は屋内でもみすり作業などに従事した。木でスプーンなどの食器を作るのもこの間の仕事であった。

 聖燭祭から春穀畑の犂耕が始まり,採草畑から放牧中の家畜が追われ,垣が作られた。春穀は受胎告知日(3月25日)までに播種された。この期間は四旬節Lentにあたるので,春穀のことをレント穀物ともいう。復活祭が終わると,五月祭,祈願祭Rogation Day(主の昇天祭前の3日間),聖霊降臨祭と祝祭日が続き,長い冬から解放された恵みが農民にも与えられた。同時に,仕事も忙しくなる。まず,屋敷地内の野菜,果物などの菜園を整え,小川に羊を追い込んで毛を洗い,剪毛する,次いで採草畑での干し草作りが重要な仕事である。採草畑はラマスLammas(8月1日)以降は共同地となるため,なるべく多くの干し草を確保するため農民は作業を急いだ。この作業と前後して休閑畑の犂耕を2回行う。ヨハネ祭(6月24日)を過ぎると除草作業を行う。アマ,タイマを収穫し,紡糸用に加工するのもこの時期である。これは婦人の仕事であった。

 干し草作りが終わると穀物の収穫が始まる。中世の農民は領主直営地の収穫賦役をも課せられていた。播種,犂耕,干し草収穫などの賦役も課せられていたから,農民生活に余裕はなかった。収穫は1年の労働の総決算であったため,村落共同体全員によって厳しく監視され,村法はこれを詳細に規定した。しかし,祝いの要素も混じり,村中で一番美しい娘が最後の1束を刈り取り,穂積みの頂に飾る例などがある。収穫後の畑で村法が認めた老人,病弱者,寡婦などが落穂を拾った。収穫後も農民はミカエル祭まで脱穀,麦芽づくりなどに追われた。以上の農業労働のサイクルは太古の昔から農民によって語り継がれてきたものである。

 農事暦は同時に〈労働の暦〉として,聖像,聖画とともにキリスト教美術の主題の一つとなっている。例えば,フランスのランス大聖堂の半円形アーチの彫刻,イギリスのカーライル聖堂内陣の柱頭の彫刻,ヘリフォード・ウースター州の寒村リップル村教会内陣の聖職者席のミゼリコルディアの彫刻,スイスのローザンヌ大聖堂のステンド・グラスなどにそれがみられる。また,〈労働の暦〉は中世の貴族が愛蔵した多くの時禱書にも描かれているが,《ベリー公のいとも豪華なる時禱書》の冒頭を飾るものがとくに有名である。農事暦は所領を経営する領主にとっても実用上の必要があったため,13世紀イギリスの農書《Treatise of Husbandry》にも記載されている。

 16世紀になると印刷術の普及につれ,農書が数多く刊行されるようになるが,なかでもトマス・タッサーの農書は9月から収穫の月8月までを34章に分けてうたい上げ,これに季節の変化,妻の心得などを添えた散文詩で,イギリスの農事暦の集大成である。同じころ,フランスでもオリビエ・ド・セールが農書を著して詳細な農事暦を開陳し,17世紀末にはリジェの農書も公刊された。
執筆者:

中東地域において,断食明けの祭りや巡礼月の犠牲祭,あるいはフセインの殉教を悼む哀悼祭(アーシューラー)などイスラムに固有な行事は,太陰暦であるヒジュラ暦に従って行われてきた。これに対して農事や地租の徴収は,イスラム時代以後においても,各地に固有な太陽暦に基づいて行われるのが慣例であった。エジプトのコプト暦,シリアやイラクのシリア暦,イランのペルシア暦などがこれに相当する。15世紀ごろのコプト暦を例にとってみれば,ナイルが増水する8月末を年初として,月ごとに次のような農事や祭りが定められていた。

(1)トゥート月(西暦8月29日~9月27日) 秋の初め。17日に灌漑溝を開く。十字架の祭。耕作地の登録が行われる。

(2)バーバ月(9月28日~10月27日) ナイルが最高水位に達する。月半ばから小麦や大麦の播種。稲刈り。羊と牛の乳を搾る。

(3)ハトゥール月(10月28日~11月26日) アマの耕地から水をきる。サトウキビの圧搾に必要な用具を点検する。

(4)キーハク月(11月27日~12月26日) 冬の初め。クローバーを播種する。ひこばえのサトウキビを刈って搾る。

(5)トゥーバ月(12月27日~1月25日) 果樹の移植。綿,ゴマなどの夏作のために1回目の犂耕を行う。1年目のサトウキビを刈って搾る。

(6)アムシール月(1月26日~2月24日) 夏作のために2回目の犂耕をする。夏作の播種を始める。ブドウの枝下ろし。

(7)バルマハート月(2月25日~3月26日) 春の初め。地中海の航海が始まる。アマを刈る。サトウキビの植付け。

(8)バルムーダ月(3月27日~4月25日) ソラマメと大麦の取入れ。アカシアの木を切り,ナイルを利用してカイロまで運ぶ。

(9)バシュナス月(4月26日~5月25日) 稲とゴマの播種。小麦と大麦の脱穀を行う。バルサムの油を搾る。

(10)バウーナ月(5月26日~6月24日) 夏の初め。ミカエル祭。ナイルの増水が始まる。アマを水に浸す。

(11)アビーブ月(6月25日~7月24日) アマを水から出してさらす。アマとクローバーの種子を購入する。

(12)ミスラー月(7月25日~8月23日) アレクサンドリア運河にナイルの水が流れ込む。ナツメヤシが色づきだす。レモンの収穫。

 農民は太陽の位置や日影の長さによって各農作業の時期を熟知していたはずであるが,このような農事暦が史書にまとめられるようになるのは10世紀以降のことであった。天文をつかさどるウラマー(知識人)は,ヒジュラ暦とコプト暦の関係を把握し,その知識は徴税の開始期を定めたり,会計年度を調節することなどに利用された。この伝統は,コプト暦による農事やヒジュラ暦に西暦を加えた現代の暦(タクウィーム)にも生き続けている。
執筆者:

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「農事暦」の解説

農事暦
のうじれき

農業を営むために必要な事項を記載した暦。東アジアの太陰太陽暦は基本的には農事暦である。まず季節を知らせるための二十四節気や七十二候,八十八夜や二百十日などの雑節などを記し,稲作を中心とした耕土・播種・施肥・収穫などの農作業や気象上注意すべき時期を注記する。また豊作を祈るための祭,干害・風水害・虫害などの予防のための行事,収穫を感謝する祭などを記す。太陽暦では毎年季節が一定しているので,二十四節気などの要素は必要はなくなった。それにかわり,統計や農耕・家畜の飼育などについての科学的な記事が掲載されている。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「農事暦」の意味・わかりやすい解説

農事暦
のうじれき

農事に従う人たちに必要な事項を注した暦。農事はまず季節を知ることが重要で、そのため太陰太陽暦時代の東洋における暦の二十四節気はその基をなすものであった。これに播種(はしゅ)・収穫・施肥などの時期、あるいはとくに気象上注意すべき時期、さらに豊作を祈念し収穫を感謝する祭りの日などを記載した暦書が農事暦である。現行の太陽暦では、季節は毎年同じ暦日に循環するところから、農事暦の必要性は減少してきた。

[渡辺敏夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の農事暦の言及

【季節】より

…乾季は冬(12月~2月),春ないし初夏またはプレモンスーン(3~5月),秋またはポストモンスーン(10~11月)に分けられる。 世界各地で古くから季節の認識または区分と深い関係をもっていたのは農事暦である。作物の発芽,出穂,開花,成熟,家畜の発情,分娩,換羽などの時期は,その土地の気候の季節的特徴と関連し,農事季節と呼ばれるが,各地の農民は長年の経験に基づき農事季節を記録した独自の農事暦をもっている。…

【時令】より

…なぜなら農民は天体の運行や地上のもろもろの自然現象に留意して播種の時期などを決定せねばならなかったからである。《詩経》豳風(ひんぷう)七月の詩は,のちの漢の崔寔(さいしよく)《四民月令》の先駆をなす,素朴な農事暦である。たとえばその一節に歌う,〈四月には秀(みの)る葽(くさ)あり,五月には鳴く蜩(せみ)あり,八月にはそれ穫(と)りいれし,十月には蘀(かれは)の隕(お)つ〉。…

【労働】より

…それが,今日用いられるような意味になにゆえ変わってきたか,その変化は何を意味するかを考えるためには,人間の生産的活動の歴史を,その中の典型的ないくつかの段階だけであるが,眺めてみるのが好都合である。
【歴史の中にみる労働】

[農事暦の中の労働]
 近代以前の社会では人口の大部分は農業に従事していた。したがってどの国においても労働についての基本的な考え方は,農業の中で作られたと考えてよい。…

※「農事暦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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