遠山郷(読み)とおやまごう

日本歴史地名大系 「遠山郷」の解説

遠山郷
とおやまごう

遠山川流域一帯の郷村の総称。江戸時代にはかど(現かみ村)木沢きざわ八重河内やえごうち和田わだ(以上現南信濃村)満島みつしま鶯巣うぐす(以上現天龍村)の六ヵ村を含む地域をさし、地域的にも歴史的にもまとまりのある地名として、江戸時代はもちろん、その後も用いられている。

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日の条に「江儀遠山庄」として記される(→江儀遠山庄。また、天正六年(一五七八)二月の武田勝頼造宮手形(諏訪文書)に、諏訪社上社造営を遠山之郷代官に勤仕させた記事が、「遠山之郷」の初出である。

遠山郷の領主がほぼ明確になるのは、和田城を築いた遠山遠江守景広からである。景広は天文二二年(一五五三)より武田氏に属したが、武田氏滅亡後は土佐守景直が徳川家康に属し、全盛期には遠山郷のほか遠州北部、大鹿おおしか部那べな福与ふくよ上穂うわぶ箕輪福島みのわふくしま(いずれも伊那郡)などを領した(南信濃村史)。元和四年(一六一八)七月の松平正綱等連署状案(千村文書)によれば、その後を継いだ加兵衛景重が元和三年に病死したため、一族の相続争いが起き、翌年遠山氏は改易され絶家となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「遠山郷」の意味・わかりやすい解説

遠山郷 (とおやまごう)

長野県下伊那地方南端の遠山川(天竜川の支流)流域一帯の郷村の総称。《吾妻鏡》文治2年(1186)3月12日の条に〈江儀遠山庄〉とあるのが遠山の地名の初出で,1578年(天正6)2月の武田勝頼造宮手形には諏訪社上社造営を遠山之郷代官に勤仕させたとある。遠山郷は現在の飯田市の旧上村,旧南信濃村,天竜村を含む地域をさしていたらしく,これは江戸時代を通して変わらなかったが,今日では旧上村と旧南信濃村一帯をいうようになっている。

 江戸時代に,飯田から小川路峠を越えて遠山谷に入り,さらに青崩峠を越えて遠州秋葉山へと通じる秋葉街道が整備され,往来が盛んになると,旧上村の上町(かんまち)や旧南信濃村の和田は宿場町として栄えた。現在でも,間口が狭く家の裏まで通じる細長い〈通り〉を持った家屋がみられ,そのなごりをとどめている。江戸中期まで米の代りに榑木(くれき)を年貢として納めていたように,遠山郷の生業林業が中心であり,かつてはここに木地屋集落も存在した。農業は稲作がほとんど行われず,山の急斜面に開かれた畑や焼畑でのムギ,アワ,ヒエ,ダイズなどの雑穀栽培が主で,特産としてコンニャク栽培も盛んであった。また12月から1月にかけて遠山郷の村々で行われる遠山祭は,秋の収穫祭御霊(ごりよう)信仰とが結びついた湯立て神楽で,代表的な霜月神楽の一つとされており,百姓一揆で殺された遠山氏一族の怨霊を鎮めるために始められたと伝えられている。
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デジタル大辞泉プラス 「遠山郷」の解説

遠山郷

長野県飯田市にある道の駅。国道152号に沿う。

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世界大百科事典(旧版)内の遠山郷の言及

【上[村]】より

…西部を国道152号線が通る。かつて南信濃村とともに遠山郷とよばれた秘境で,中心の上町は秋葉道の難所といわれた小川路峠の峠口の宿場であった。村域の大部分は山林・原野で占められ,養蚕を中心に茶,シイタケなどの栽培や畜産が行われる。…

※「遠山郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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