那津(読み)なのつ

日本歴史地名大系 「那津」の解説

那津
なのつ

古代の津。那珂なか川の河口付近にあたるか。那津の地名は「魏志」東夷伝倭人条に、邪馬台国と同時期に存在したクニの一つとしてみえる奴国に由来するという。「日本書紀」宣化天皇元年五月一日条に「那津の口」に官家を修造して、ここに河内国・尾張国・伊賀国などの屯倉、また筑紫・肥・豊三国の屯倉の稲穀を集積して非常時に備えたとある。いわゆる那津官家修造の記事で、「大宰府・太宰府天満宮史料」巻一が同条を冒頭に掲げたことによって、のちの大宰府の起源と考えられてきた。

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改訂新版 世界大百科事典 「那津」の意味・わかりやすい解説

那津 (なのつ)

古代,儺県(なのあがた)にあった港。娜大津(なのおおつ)ともいう。福岡市の那珂川の河口にあったと推定される。《日本書紀》にその名がみられるが,《続日本紀》では博多大津(博多津)とあって,那津と同じかどうかは検討を要する。《日本書紀》宣化紀に官家(みやけ)を那津のほとりに造ったとあり,斉明7年(661)には,百済救援のため娜大津に至るが,近くの磐瀬行宮(いわせのかりみや)に滞在して,津の名称長津(ながつ)と改めるとある。
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世界大百科事典(旧版)内の那津の言及

【九州地方】より

…3世紀の《魏志倭人伝》に見える邪馬台国は,北九州にあったという有力な説もある。7~9世紀にかけ,九州の那津(なのつ)(現,福岡県)や坊津(ぼうのつ)(現,鹿児島県)から大陸へ渡航した遣唐使らは,日本に高度の文化を伝えた。13世紀には,元の大軍が来攻(元寇)したが,当時築いた石築地の一部は現在も博多の海岸に残っている。…

【港湾】より

…《日本書紀》には崇神天皇が〈船は国の要用なり〉と勅したとあり,また《古事記》には仁徳天皇のとき住之江(現,大阪市)に津を定むとある。記紀の記述の真偽はともかく,大宰府の外港として那津(なのつ)(現,博多港),畿内の門戸として難波津(なにわづ)(現,大阪市上町台地周辺)が開かれ,さらに瀬戸内海の沿岸にいくつかの泊が整備され,これらを重要交通軸として国の内外の交流が盛んに行われ,日本の国が形成されていったことは確かである。 古代の海運は手こぎが主で,後に帆を併用するようになったといわれる。…

【筑前国】より

…古墳時代にも嘉穂郡の王塚や鞍手郡の竹原などの装飾古墳に見られるような独自の文化が発達し,宗像郡の沖ノ島遺跡は海上交通にかかる祭祀遺跡として有名である。対外交渉が頻繁になるにつれて当国はその重要性を増し,536年那津(なのつ)(福岡市)に官家(みやけ)が修造され,7世紀初頭にはその長官とみられる筑紫大宰(つくしのおおみこともち)が出現した。百済支援のため西征した斉明天皇は朝倉宮(朝倉郡)で没したが,那津は支援軍の発進基地であった。…

【博多】より

…筑前国の港町(現,福岡市博多区)。
[古代・中世]
 古くは那津(なのつ),那大津(なのおおつ)と呼ばれ,8世紀中ごろから博多と称され,中世には石城(せきじよう),冷泉津とも別称された。当初は大宰博多津として,大宰府の外港的役割をはたした。…

※「那津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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