那覇(市)(読み)なは

日本大百科全書(ニッポニカ) 「那覇(市)」の意味・わかりやすい解説

那覇(市)
なは

沖縄本島南部の西岸にある市で沖縄県の県庁所在地。1896年(明治29)久米(くめ)、泊(とまり)、久茂地(くもじ)の3村を編入し、那覇四町とあわせて那覇区となる。1903年(明治36)真和志(まわし)村の牧志(まきし)と小禄(おろく)村の垣花(かきのはな)を分割編入し、さらに1914年(大正3)真和志村より壺屋(つぼや)町を編入して1921年市制施行。1954年(昭和29)首里(しゅり)市、小禄村を編入、1957年真和志市を編入。2013年(平成25)4月中核市に指定。面積41.42平方キロメートル。人口31万7625(2020)。

[堂前亮平]

自然

地形は、市の中央部の旧市内はほぼ低平地で、小高い丘陵地がこれを取り囲む。市内を国場(こくば)川と安里(あさと)川が流れ、東シナ海に注ぐ。地質は、第三紀中新世の島尻(しまじり)層の上に琉球(りゅうきゅう)石灰岩が部分的にのっている。気候は亜熱帯季節風気候区に属し、年平均気温23.3℃、年降水量は2100ミリメートルを超す(1991~2020平均)。

[堂前亮平]

歴史

現在は埋め立てられて陸続きであるが、500~600年前の那覇は、浮島であった。古くから、日本、中国、朝鮮、東南アジアと貿易を行っていた。1451年、尚金福(しょうきんぷく)が海中道路長虹堤(ちょうこうてい)を築造して首里と陸路でつながるようになり、琉球王朝の王都首里の港町として発達した。1609年(慶長14)薩摩(さつま)の侵入後は、琉球王国に対するお目付役ともいうべき琉球在番奉行所(ぶぎょうしょ)が置かれる一方、貿易は島津氏の管理下で対中国のみに限定されたため、港の活気は減退した。17世紀の後半に、西、東、若狭町(わかさまち)、泉崎のいわゆる那覇四町の行政区域が整った。1879年(明治12)沖縄の廃藩置県により、政治の中心は首里から那覇へ移り、県都として隆盛を誇ったが、第二次世界大戦の沖縄戦によって、灰燼(かいじん)に帰してしまった。戦後一時期、市街地はアメリカ軍に接収されたが、1945年(昭和20)11月陶器製造をする目的で、男子103人が壺屋に居住することが許可され、ここが那覇再建の突破口となり、人口も漸次増加。1949年12月アメリカ民政府が知念(ちねん)村(現、南城(なんじょう)市)から那覇へ移され、首都としての機能が胎動し始めた。第二次世界大戦後の都市形成は、1948年4月壺屋に近い地域に市営の公設市場の設置が発端となる。1950年代に入り、この地域に近接する神里原(かんざとばる)に商店街が形成され、一時那覇市の中心商業地域となったが、都市計画事業により、「奇跡の1マイル」とよばれた国際通りが整備されると百貨店や有名商店が神里原から移動し、中心商店街が形成されてきた。現在、那覇市は県庁をはじめ国の出先機関が集中し、交通・通信の要(かなめ)でもあり、経済活動においては、とくに商業機能を中心とする第三次産業の集積が著しく高い都市である。さらに沖縄大学や研究機関をはじめ各種の文化施設も所在し、沖縄県の文化の中心でもある。那覇市の都市圏は沖縄島の中・南部地区の11市町に広がっている。県庁周辺地域から国道58号沿いに官庁および本土会社の支社、出張所、情報機関などの中枢管理機能が集中している。

[堂前亮平]

産業

那覇市の産業構造の特色は、第三次産業が事業所総数の90%以上を占めていることである。農業は農地の宅地化によって急速に減退している。工業は食料品工業が全体の4分の1を占めている。商業は小売業の比重が大きい。那覇市の商業地域の特色は市場(まち)である。現在も営業している第一牧志公設市場が有名。また、那覇市は沖縄観光の中心地であり、近年観光客は増加の一途をたどって、年間約800万人を超え(2019)、県経済のなかで大きな比重を占めてきた。

[堂前亮平]

交通

那覇市は、本土や県内の各地域を結ぶ交通の結節地域である。那覇港は15世紀ごろから、中国、南方諸国、本土との貿易の拠点として発展してきた。現在、重要港湾に指定されている。那覇空港は1933年(昭和8)海軍小禄飛行場として出発したもので、その後アメリカ軍管理を経て、復帰(1972)後、運輸省(現、国土交通省)の管理に移った。2019年(令和1)には年間約2061万人の利用客があり、国際線が16都市、国内線が29都市、離島線が10の離島と結んでいる。道路交通では国道58号、329号、330号、331号、332号、390号、506号、507号、沖縄自動車道が走り、結節点となっている。第二次世界大戦前は県営鉄道が走っていたが、戦後は自動車交通に依存している。2003年沖縄都市モノレール(那覇空港―首里間)が開通した。

[堂前亮平]

観光・文化

琉球文化の中心地として多くの史跡や文化財などをもち、沖縄観光の拠点となっている。文化財の多くは沖縄戦で灰燼に帰したため、復原されたものが多い。国指定史跡として、首里城跡(2019年の火災によって主要施設が焼失。復原工事が進められている)、円覚寺跡(えんかくじあと)、玉陵(たまうどぅん)、末吉宮跡などあり、また守礼門(しゅれいもん)、園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)、金城(きんじょう)町の石畳道など首里城跡を中心に、数多くの旧跡があるほか、波上宮(なみのうえぐう)、ペリー提督上陸記念碑、崇元寺跡(そうげんじあと)がある。2000年琉球地方の独特な文化遺産を対象に9か所の遺産群が「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として世界遺産(文化遺産)に登録された。このうち、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園の4か所が、那覇市内にある。伝統工芸品として紅型(びんがた)・漆器・陶器、国の選択無形民俗文化財としてフェーヌシマ(南島踊。登録名「那覇安里のフェーヌシマ」)などもある。県立博物館・美術館は、沖縄戦で破壊散逸した多くの文化財を回収して、約10万点を収蔵している。

[堂前亮平]

『『那覇市史』全33冊(1966~2008・那覇市)』


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