那覇港(読み)なはこう

日本歴史地名大系 「那覇港」の解説

那覇港
なはこう

沖縄島の南西に位置し、東シナ海に面する。古琉球以来、琉球王国随一の港として沖縄島中南部や宮古・八重山など国内海上交通の要所となっていたほか、日本や中国・東南アジア諸国など海外交易の拠点ともなっていた。那覇津・那覇泊のほか、那覇川などとも称された。近代以降も沖縄県表玄関として整備改修が進められた。一九七二年(昭和四七年)五月、独立した港湾であった那覇・とまり・那覇新港の三港湾が那覇港として一つにまとめられ重要港湾に指定された。九六年(平成八年)浦添うらそえ埠頭地区(浦添市)が追加された。

〔古琉球〕

港の発祥については諸説あって定説はない。一三―一四世紀の英祖・察度両王統の時代とする説、一四世紀末―一五世紀の察度・尚巴志政権の時代とする説などがある。英祖・察度の浦添政権の港を牧港まちなとう(現浦添市)安謝あじやとするか、また英祖が奄美諸島からの入貢のためとうまい御殿を創建したとの「琉球国由来記」の説に従って泊とするか、あるいは日本僧禅鑑が漂来したとされる那覇港とするか、さらに察度王代の後半、首里城に高世層理を建造し王都を首里に移したことから(同書)、港も那覇港となったと解するなど様々な推測が成立つ。また海外交易に従事した職能集団(のちの久米村人)の拠点は、初めから那覇の一角の久米村くにんだであったのか、浦添近くであったのかなど、おのおのどう解するかによって判断は分れていくこととなる。

久茂地くもじ川河口近くの久米村にあった下天妃しもてんぴ宮が永楽二二年(一四二四)の創建とされ(琉球国由来記)、尚巴志の冊封使柴山が宣徳五年(一四三〇)に建立した大安禅だいあんぜん寺が(郭汝霖「使琉球録」)、波之上護国寺近くにあったと推測されることなど、一五世紀前半の那覇港の位置を物語るものといえる。一五世紀初頭、首里を王都とした尚巴志政権の時代、王国の対外交易港が那覇港となっていたことは確実であろう。尚金福代の一四五一年には、那覇港を擁する浮島の那覇が(那覇は久茂地川と安里川で画された離島で浮島と称されていた)、海中道路である長虹ちようこう堤の築造によって安里あさとと結ばれ、陸路で首里への往還が可能となった。一四七一年成立の「海東諸国紀」所載の琉球国之図には、「那波港」「津口 江南、南蛮、日本商舶所」とみえる。また那覇と真和志まーじの間に「石橋」とあって長虹堤をさしていると考えられる。同図は一四五三年筑前博多の道安が朝鮮に献上した日本・琉球図の一枚と考えられており、長虹堤築造直後のものとなる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「那覇港」の解説

那覇港

沖縄県にある港。沖縄本島南西部に位置し、東シナ海に臨む。琉球王朝時代には国際交易で発展。1972年5月、沖縄の本土復帰に伴い復帰。港湾管理者は、那覇港管理組合。重要港湾(1972年5月指定)。2002年、管理者変更。港湾区域面積は、3,400ヘクタール。

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世界大百科事典(旧版)内の那覇港の言及

【那覇[市]】より

…市の中心部はかつて南の国場(こくば)川と北の安里(あさと)川に挟まれた島で浮島とも呼ばれていたが,両川の三角州が発達し,埋立ても進んで現在ではその面影はない。那覇は国場川河口にあって琉球王朝時代から首都首里の外港として栄えた那覇港と,安里川河口にあって離島航路の船の停泊地であった泊港の港町から発展した。1879年沖縄県が設置されて県庁所在地となり,政治,経済,文化,交通の中心は首里から那覇へ移動した。…

※「那覇港」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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