鄭玄(じょうげん)(読み)じょうげん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鄭玄(じょうげん)」の意味・わかりやすい解説

鄭玄(じょうげん)
じょうげん
(127―200)

中国、後漢(ごかん)の経書学者。「ていげん」ともいう。字(あざな)は康成。北海国高密(こうみつ)県(山東省高密県南西部)の人。下層士族で、幼少より学を好み、地方の税吏となるが辞し、40歳まで洛陽(らくよう)・長安(ちょうあん)を中心に遊学を続けた。第五元先(だいごげんせん)、張恭祖(ちょうきょうそ)、馬融(ばゆう)らに師事し、今文(きんぶん)・古文の経学、緯書(いしょ)、暦数などを広く学び、帰郷後は経書の注釈作成に専念した。党錮(とうこ)の禁に座し、無官のまま、後漢末の動乱を民間の学者として生き抜いた。完存する著述は、『周礼(しゅらい)注』『儀礼(ぎらい)注』『礼記(らいき)注』(『三礼注』と総称。礼学の最大の権威となる)と『毛詩箋(せん)』の4種。ほかに『周易(しゅうえき)』『尚書』『尚書大伝』『論語』『孝経』や緯書、律令に注をつけ、経学総論の『六芸(りくげい)論』、他学者の説を批判した『駁(ばく)五経異義』、『発墨守(はつぼくしゅ)』『箴膏肓(しんこうこう)』『起廃疾(はいしつ)』を著したが、散逸した。集逸書に孔広林の『通徳遺書所見録』などがある。彼の経学は、古文学を基礎として、今文・古文の諸家の説を総合し、両漢経学を集大成した「鄭学(ていがく)」として盛行した。経書間の矛盾調停、厳密な本文批判、周辺諸分野の知識の活用に意を注ぎ、歴史的発展形而上(けいじじょう)的枠組みのなかで、経学に体系性を与えることを目ざしていたようであるが、そのために緯書を利用したことは、後世の批判を招いた。もっとも高名な訓詁(くんこ)学者であり、とくに清朝(しんちょう)考証学者たちからは、許慎(きょしん)と並んで尊崇を受けた。

[高橋忠彦 2016年1月19日]

『大川節尚著『三家詩より見たる鄭玄の詩経学』(1937・関書院)』『藤堂明保著「鄭玄研究」(蜂屋邦夫編『儀礼士昏疏』所収・1986・汲古書院)』『王利器著『鄭康成年譜』(1983・斉魯書社)』『張舜徽著『鄭学叢著』(1984・斉魯書社)』


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