醍醐新兵衛(初代)(読み)だいご・しんべえ

朝日日本歴史人物事典 「醍醐新兵衛(初代)」の解説

醍醐新兵衛(初代)

没年:宝永1(1704)
生年:寛永7(1630)
江戸前期,安房(千葉県)勝山の浜名主,捕鯨元締め。名は定明。代々,ツチクジラの捕鯨業に専念,漁民を指導し,社寺の復興寄進に努めた。明暦(1655~58)ごろから宝永1(1704)年にかけて勝山および隣村の岩井袋で同盟57名を結集して突取法による捕鯨組大組,新組,岩井袋組を組織して捕鯨の基礎を固め,これを拡張,企業化し,醍醐組として自ら元締めになった。以後,捕鯨漁夫を確保するため,捕鯨の季節には鯨の捕獲の有無にかかわらず漁夫ひとりごとに1日5合の白米を与え,海上に出て「カジキ鮪」を突くほかは他の網漁業を禁止するなど拘束した。一族は12代にわたって代々新兵衛を名乗り,捕鯨元締めを家業とし,浜名主を世襲した。 8代新兵衛(定緝)は嘉永7(1854)年箱館奉行の命を受けて蝦夷地に渡り全島を巡回,絵鞆(室蘭)地方が捕鯨の好適地と認めるが,幕府の方針変更で帰国。銃殺捕鯨を実験した藤川三渓の助言を得て安政3(1856)年再び箱館に渡航,運上取り立て問屋の免許を受け,箱館近海で鯛漁を行う。安政5(1858)年,箱館奉行から捕鯨試験を命じられ,また同年ごろ樺太に渡って鯨群の遊泳とロシア船の捕鯨を見て洋式捕鯨の必要を感じる。安政末年以後は勝山で魚油の不凍法や鯨蝋精製に専念,英国商館への売り込みに努力した。文久2(1862)年没。<参考文献>吉原友吉『房南捕鯨』(『東京水産大学論集』第11号)

(石田好数)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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