里村(読み)サトムラ

デジタル大辞泉 「里村」の意味・読み・例文・類語

さとむら【里村】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「里村」姓の人物
里村昌琢さとむらしょうたく
里村紹巴さとむらじょうは

さと‐むら【里村】

村里」に同じ。
「―の者、これを取りて」〈宇治拾遺・一〉

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精選版 日本国語大辞典 「里村」の意味・読み・例文・類語

さと‐むら【里村】

〘名〙 いなかで人家が集まっている所。村里。
※宇治拾遺(1221頃)一「平茸やるかたもなくおほかりけり。里村の者、是をとりて、人にも心ざし、又われも食ひなどして」

さとむら【里村】

姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「里村」の解説

里村
さとむら

[現在地名]里村里

上甑かみこしき島東部に位置。東・南・北は海に面し、西は小島おしま村・中野なかの村・江石えいし(現上甑村)。北西部に鍬崎くわさき池・須口すぐち池、南西部に遠目木とおめき(四二三・三メートル)がある。甑島こしきじま郷のうちで、同郷の地頭館(地頭仮屋)は郷内三ヵ所に置かれたが、そのうち一ヵ所は当村の現里小学校校庭に置かれた。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では上甑島のうち。元禄国絵図には上甑村のうちとして村名がみえる。享保一〇年(一七二五)の検地名寄帳(原口虎雄筆写本)によれば田四四町三反余・畠四町三反余・屋敷二町余、惣合籾大豆一千六八七俵二斗余、うち籾一千六六五俵一斗余・大豆二二俵余で高六一五石余。男二一八・女二〇九、馬三六。船七艘(うち一五石積船二、一四石積船・一一石積船・一〇石積船・八石積船・五石積船各一)、網一二張(うち鰹餌網五・さこ網一・烏賊網六)・かし網四六把、屋敷一六、ほかに浮免二。延享元年(一七四四)に検地門割が行われた(「検地名寄帳」橋口家文書)。「三州御治世要覧」では延享頃の高七二八石余。旧高旧領取調帳では高七三六石余。

里村
さとむら

[現在地名]大口市里・元町もとまち

蛇行しながら南流する羽月はつき川東岸にある。北は大田おおた村、南東は原田はらだ村、北東は篠原しのはら村、西は羽月川を挟んで羽月郷鳥巣とりす村。ほぼ南北に大口筋が通る。近世には伊佐郡大口郷に属し、同郷麓が置かれた。南東部に中世の大口城跡があり、地頭仮屋は同城跡西麓(現大口小学校敷地)にあった。

天正二〇年(一五九二)一二月六日の島津義久袖加判領知目録(旧記雑録)によれば、羽月のうち里名の「青木の本」一反余と「窪牟田」一反余が早水豊前守に宛行われている。慶長一二年(一六〇七)新納利兵衛尉に加増された田畠五反余(分米五石余)のうちに、「里村から田」の下田四畦余(分米四斗余)が含まれていた(「新納為舟加増坪付」旧記雑録)。同一四年の村田源之丞宛新納忠元坪付(村田文書)では、羽月清之門のうちに里村上牟田うわむたの下田七畦がみえる。翌一五年の寺師筑後守宛の新納忠元知行目録(寺師文書)によれば、浮免として里村「わき」の下田一反余、「山わたせ」の下田一反余、「はる」の中畠一反余、「田かた」の下畠二畦などが宛行われている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に里村はみえない。「三州御治世要覧」によれば、里村は以前は羽田はねだ村・耳田みんだ村の二ヵ村であったが、万治年中(一六五八―六一)に一村になったとある。

里村
さとむら

[現在地名]大口市曾木そぎ

西流する川内せんだい川の南にあり、北は同川を隔て薩摩国伊佐郡羽月はつき下殿しもとの村。東は大隅国本城ほんじよう荒田あらた(現菱刈町)、西と南は針持はりもち村。中央部を針持川が北流する。大隅国菱刈ひしかり郡曾木郷に属し、同郷の麓村であった。慶長一四年(一六〇九)には「曾木里名」のうちの川添之門一一石余・古城之門一四石余を含む計五九八石余が飯野いいののうち末永すえなが(現宮崎県えびの市)の返地として新納近江守(久元)に宛行われた(「知行目録」島津尚久系図)。同二〇年には曾木里村之内古庵屋敷高一七石余が宮里越中守に宛行われている(「知行目録」旧記雑録)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では曾木村とあり高一千一六三石余。元禄国絵図・天保郷帳も同村名・同高。

里村
さとむら

[現在地名]安城市里町

旧東海道に沿う街村。南はいま村、西は来迎寺らいこうじ(現知立市)に隣する。慈光寺文書に「里村は、古昔八麿郷と称す」とあり、里とはこの八麿はちまろ郷の略称と思える。地勢は「東西ヘ広ク、南ニ至リ角ヲ成シ、村北ハ稍狭シ。村内田地就中多ク、次田ニシテ、次ハ山林、次ハ宅地其次ハ新種地ニシテ」と「里村村誌」に記す。八橋やつはし(現知立市)に至る街道の途中に八幡はちまん山があり、そこから流れる逢妻男あいづまお川に滝があったといわれる。

里村
さとむら

[現在地名]長崎市目覚町めざめまち茂里町もりまち岩川町いわかわまち坂本さかもと一―三丁目・江平町えびらまち・江平一―三丁目・本尾町もとおまち

馬籠まごめ村の北東に位置する。北東部の江平に金比羅こんぴら山・天狗てんぐ山が連なり、円福えんぷく(山王神社)とその奥院や、金比羅神社奥院があり、その後背地に中世は狭田せばた城が築かれたという。江戸時代は幕府領長崎代官支配で、正保国絵図の高四六六石余の「山里村」が当村に相当するか。元禄国絵図に村名がみえる。毎年一月一四日里村の散使の高谷家(長店)で馬籠村とともに絵踏が行われた。天保郷帳では浦上村のうち。文久三年(一八六三)「梅ケ崎海岸」の地先三千八〇〇坪余の新規の埋立について浦上うらかみ山里やまざとの里郷・馬込まごめ郷などの者が普請の入札に参加している(長崎代官記録集)

里村
さとむら

[現在地名]大津市田上里町たなかみさとちよう

えだ村の西から南方に広がる村域で、地名はかつては神里かみのさとと称していたのを略称したという。鎌倉期の歌人源俊頼の「散木奇歌集」神祇部に「田上に侍ける頃、上の里と云ける所に」という一節がある。地内の里西遺跡は奈良時代より室町時代にわたる集落跡。現田上小学校の敷地は室町時代の田上城跡といわれ、城主は多羅尾道可(道賀)と伝える。道可は甲賀郡の土豪で実名を光俊と称し織田信長に仕えた。天正一〇年(一五八二)の本能寺の変では和泉さかい(現大阪府堺市)にいた徳川家康を三河に無事送り届けるのに大いに力があったといい、同一二年三月二三日付で光俊に「本領田上・大石」を安堵している(「東照宮御判物」内閣文庫蔵)

里村
さとむら

[現在地名]鳩ヶ谷市桜町さくらちよう一―二丁目・本町ほんちよう一丁目・坂下町さかしたちよう一丁目・里

浦寺うらでら村の西に位置し、北東の台地に対して南西に低地が広がる。西端をしば川が南流し、ほぼ中央を見沼代用水(東縁)が東流する(「村絵図」長島家蔵)。文明一八年(一四八六)一二月二条派の歌人尭恵は当地を訪れ、「鳩が井の里滋野憲永が宿に着きぬ」(北国紀行)と記している。戦国期に作成されたと推定される市場之祭文写(武州文書)に「武州足立郡鳩谷之里市祭成之」とあり、古くから鳩ヶ谷を冠して称していたことがうかがえる。享保七年(一七二二)法性ほうしよう寺鐘銘にも「鳩箇谷内里村」とあり、近世に至ってもその遺称が認められる(船戸家文書)

里村
さとむら

面積:一七・三〇平方キロ(境界未定)

上甑かみこしき島東部に位置。東・南・北は東シナ海に面し,西は上甑村。北部に鍬崎くわさき池・須口すぐち池、南部に遠目木とおめき(四二三・三メートル)がある。北部の遠見とおみ山地塊と上甑島本島を結ぶ長さ一・五キロの陸繋島は里のトンボロとして著名である。考古遺跡は縄文・弥生・古墳の各時代にまたがっているが、他地域と比べて少ない。中町馬場なかまちばば遺跡(村西自治公民館敷地)は昭和五九年(一九八四)鹿児島大学考古学研究室によって調査された。縄文・弥生・古墳の各時代および古代の土器・石器・土製品・鉄滓などが出土している。南島との交渉を示唆する南島の外耳土器に類似した土器と弥生初源期の文化が北九州から直接伝わってきたことを物語る板付I式土器が出土し、注目された。

里村
さとむら

[現在地名]輪島市里町

小田屋おだや村の東、南志見なじみ川中流から河口東岸の平地・丘陵に立地。中世の南志見郷の中心地で、南志見城が築かれていた。南志見川は西山にしやま村を水源とし、長さ一里二〇町余、小田屋村・里村入会領で海に注ぐ(能登志徴)正保郷帳に村名がみえ、高三八一石余、田方一五町七反余・畑方九町七反余、新田高二六石余、田方一町七反余。承応三年(一六五四)の村御印の高四〇八石余、免四ツ六歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四二九石、免五ツ八歩、小物成は山役九六匁、鳥役一匁(出来)であった(輪島市史)

里村
さとむら

[現在地名]加茂町大字里

近世加茂郷の中心をなす村で、北は木津きづ川、南は高田たかだ、東は兎並うなみの各村に接する。「京都府地誌」は地勢を「東方連山ヲ負ヒ、西北田野闢ケ」と記す。村内をほぼ南北に奈良と木津川を結ぶ街道が通り、北の舩屋ふなやで渡船し伊賀街道信楽しがらき街道に結んだ。古代の賀茂郷に属したと思われ、平安時代から中世にかけては東大寺領や興福寺領などの賀茂庄の一部であった。

正徳二年(一七一二)八月の木津川大洪水以前は、集落は舩屋辺りにあったが、その後山際に移転したといわれ、その折社寺なども移された。

里村
さとむら

[現在地名]水原町里

北は大野地おおやち村、西は中野目なかのめ村。天正二年(一五七四)九月の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)に軍役衆二和田勘拾郎の給地として村名が載る。文禄三年(一五九四)とみられる安田堅親知行定納覚(大見安田氏文書)には里村八八石五斗とあり、右のほか四六貫文の永不作があった。慶長三年(一五九八)村上藩領となり、元和二年(一六一六)の片桐五左右衛門宛村上忠勝知行宛行状(片桐正夫氏蔵)に「安田組里村」一五〇石、村上吉兵衛宛村上忠勝知行宛行状(嵐瑞澂氏蔵)に「安田里村」一三三石四斗六升とある。

里村
さとむら

[現在地名]大分市里

丹生にゆう川河口左岸の村。西の城原じようはる村からいち村に伊予街道が貫く。同街道が丹生川にかかる河口近くのおう渡は徒渡しで、「肥後国誌」に「王ノ瀬川ノ歩渡鶴崎辺ヨリ佐賀郷関村等ヘノ道筋ナリ」と記す。文禄二年(一五九三)の海部郡小佐井検地帳写(渡辺家文書)によると、里村の高八五〇石余、うち田高六四七石余・畑高二〇三石余、村位は中。江戸時代を通じて臼杵藩領。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳では小佐井組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によると本高八四〇石余・出来高一二石余。正保郷帳によれば丹生庄に所属。「豊後国志」は皇(王)之瀬村を独立の村として扱っている。同村の熊本藩領市村境川端と同竹下たけした村境道筋松原に、それぞれ「従是川中西臼杵領」「従是東臼杵領」の境木が立てられていた(「雑録」臼杵藩政史料)

里村
さとむら

[現在地名]由良町里

由良川河口近くに広がる。北東は門前もんぜん村、西は枝郷横浜よこはま浦。慶長検地高目録によれば村高五二四石余、小物成四斗二升二合。その後枝郷として横浜浦を分村した。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」には「里村二ケ村」とあり、総田畑面積は三六町一反余で、村高五一三石余となっているが、内訳は本村里村分と枝郷横浜浦分を別記している。それによれば里村は村高二四六石余でほかに興国こうこく寺領一三石、家数六二、人数二一四、牛一一、馬二。

里村
さとむら

[現在地名]伊万里市東山代町ひがしやましろちよう

伊万里湾に流入する里川により形成された扇状地。慶長絵図に「里村 脇野ノ内」とある。扇端に青幡あおはた神社が鎮座。

源直が久安年間(一一四五―五一)この地に政庁を築き、その子山代囲の代から天正一五年(一五八七)まで山代氏の支配の中心となった。その館は敷地約三千平方メートルに水堀をめぐらした平館で、現在その跡をたちとよび、正手しようてじんうち五反田ごたんだなどの地名を残している。のち田尻氏の支配地となる。扇央部の小路くうじの集落立地について「西松浦郡誌」は「天正十七年田尻鑑種山代東部を領し来移す(当時所領千六百五十九石と称す)

里村
さとむら

[現在地名]輪之内町里

福束ふくづか輪中の北西部に位置し、東は中郷なかごう村、西は福束村。慶長五年(一六〇〇)九月二三日の徳川家康禁制朱印状(棚橋文書)に里村とみえる。慶長郷帳では村高七三三石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では近藤政成領。正保郷帳では幕府領、田高四六二石余・畑高二七一石余。享和四年(一八〇四)大垣藩預所となり、幕末に至る(岐阜県史)。天保九年(一八三八)の村明細帳によると村高七三三石余、うち江堀敷・石盛違永引で残高七三〇石余、田三八町四反余・畑二六町二反余、家数九三・人数四六九、造酒屋一があった。

里村
さとむら

[現在地名]加古川平荘町里へいそうちようさと

池尻いけじり村の北東に位置し、東は加古川に接する。天文元年(一五三二)八月一七日の報恩寺旧記覚(報恩寺文書)によると観音堂や鎮守が存在した。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によれば田方三三三石余・畑方六〇石余。寛保二年(一七四二)の村明細帳(平之荘神社文書)では田二〇町二反余・分米三六二石余、畑四町九反余・分米六〇石余、新田畑七町五反・分米四四石余、小物成は犬米・高瀬舟一艘役米・草藁銀・請林運上銀・鳥殺生札運上銀・柿渋、産物は木綿、郷蔵二、家数一四三・人数七五六(うち大工一五・木挽三・材木屋一)、蔵本一軒、横渡シ小船二、池四(山田池・長池・中ノ池・上ノ池)、観音堂、愛宕社などがある。

里村
さとむら

[現在地名]和歌山市里

名草なくさ郡に属し、たに村の南にある。和歌山城下から北東三里の地で、大坂街道の最初の伝馬所。天保郷帳の注によると、古くは「山口里村」とよばれた。慶長検地高目録によれば高四一八石余、小物成一升二合。文化五年(一八〇八)の諸色覚帳写(保田氏所蔵文書)によると水利はろつ懸り、伝馬所で馬二七疋を所持していた。山口組に属し、「続風土記」によると家数九六、人数三〇一。

里村
さとむら

[現在地名]福島町里免さとめん

福島村の北部に位置し、北東部は海に臨む。かみうえに中世の開山とされる曹洞宗福寿ふくじゆ寺、かみまえに天正年間(一五七三―九二)大川内則重が初代神職であったという今山いまやま神社がある。江戸時代は福島村のうちで、正保国絵図に「里村」とあり、高二二〇石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では福島村内に里免と記される。

里村
さとむら

[現在地名]笠利町里

赤木名はつきな村の北に位置し、集落は笠利湾の入江に臨む。笠利かさん間切の赤木名方のうち。「大島私考」に赤木名方一〇ヵ村のうちとして「里村」とみえ、祭魚洞文庫本では里村・中金久なあがねく村・外金久そとかねく村の三ヵ村の高頭は赤木名村に一括して記され、三ヵ村を赤木名とよぶという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の里村の言及

【中之島】より

…御岳(おんたけ)(979m)を最高点とする火山島で,切り立った海食崖が発達する。西岸の里村に中之島港と村役場支所がある。平地は島の中央部にわずかにあるにすぎないが,列島中では最もよく水田,畑地,牧草が発達し,サツマイモの生産と肉牛の飼育が営まれる。…

※「里村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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