野口援太郎(読み)のぐちえんたろう

改訂新版 世界大百科事典 「野口援太郎」の意味・わかりやすい解説

野口援太郎 (のぐちえんたろう)
生没年:1868-1941(明治1-昭和16)

教育の実践家,理論家。福岡県生れ。1894年東京高等師範学校卒業後,福岡,福井の各師範学校教諭などを経て,1901年に姫路師範学校の校長となり,それまでの軍隊式師範教育を批判し,家族的でリベラルな学風をつくり,新しい教員養成のあり方を示した。欧米の新教育運動にも深い理解をもち,19年帝国教育会の専務理事に就任してからは全国的な指導者として活躍した。23年下中弥三郎らと教育の世紀社(《教育の世紀》)を結成,それを母体として24年〈池袋児童の村小学校〉(児童の村)を創設,その校長となった。さらに30年には〈日本新教育協会〉を結成して会長を務め国際新教育協会と結ぶなど,新教育運動に大きな貢献をした。とくに小学校教育に力を注ぎ,〈日本のペスタロッチ〉といわれた。著書に《高等小学校の研究》(1926),訳書に《活動学校》(フェリエール著,1933)などがある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野口援太郎」の解説

野口援太郎 のぐち-えんたろう

1868-1941 明治-昭和時代前期の教育者。
明治元年9月18日生まれ。34年姫路師範の初代校長となる。大正12年教育の世紀社を創設,翌年東京池袋に児童の村小学校を創立した。14年城西学園長,昭和5年新教育協会会長。昭和16年1月11日死去。74歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。東京高師卒。著作に「自由教育と小学校教具」など。

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世界大百科事典(旧版)内の野口援太郎の言及

【寄宿舎】より

…しかし,その後形式的管理の強化が青少年の反発と志気(モラール)の低下に結果することへの危惧から,寄宿舎自治や教職員をも含めた共同生活方式の導入が考慮されるようになった。1890年第一高等中学校における〈籠城自治〉の承認に代表される旧制高等学校における寮自治制は,自治の容認により寮生たちに将来のエリートとしての自負と使命感を育成しようと配慮されたものであったし,明治後半に姫路師範学校で校長野口援太郎により採用された自治・共同の寄宿舎制は,師弟一体の共同生活による自律的で積極性ある教師の養成を図ったものである。この自治制下で,寮生活にうるおいをもたらす寮祭,運動会,ストームなど多様な行事が行われ,またその生活を謳歌する寮歌などが数多く生み出された。…

【教育会】より

… 帝国教育会の果たした役割は時代によって変わった。注目されるのは第1次大戦後の沢柳政太郎会長,野口援太郎専務主事の時代である。1917年の全国小学校女教員会の開催,18年各府県の教育会の連合組織の結成,21年政府の地方教育費整理節減案への批判,そのほか機関誌《帝国教育》の発行,教員の研究活動への援助,国際的教育運動との連携等々の事業は,政府の政策とは離れた独自のプレッシャー・グループとしての役割を果たした。…

【教育の世紀】より

…1923年10月~28年11月,教育の世紀社によって発行された自由主義的な月刊教育雑誌。教育の世紀社は,23年の初めに野口援太郎下中弥三郎,為藤五郎,志垣寛の4人が,〈教育の実質,内容,方法上における革新運動〉を目ざして結成した教育団体である。その事業としては《教育の世紀》の発行のほか,理想の学校〈児童の村〉の建設と経営を目ざした。…

【児童の村】より

野口援太郎らが中心となって1923年に結成した団体〈教育の世紀社〉が実験学校として開設した私立小学校。最初のものは24年に東京池袋に創設された池袋児童の村小学校で,野村芳兵衛やのちには戸塚廉などが教師として参加した。…

※「野口援太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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