野村左兵衛(読み)のむら・さへえ

朝日日本歴史人物事典 「野村左兵衛」の解説

野村左兵衛

没年:慶応3(1867)
生年:文化12(1815)
幕末会津藩(福島県)藩士。名は直臣。文久2(1862)年,藩主松平容保が京都守護職に就任し,翌年1月,その仕事を集団で補佐していくため京都に公用方(局)が設置されると,これを名実ともに会津藩最高の諮問・政策立案機関に育てることに貢献した。同3年の旧暦秋,軍事奉行のまま公用人に任命され,翌元治1(1864)年には軍事奉行の職を解かれて公用人,御聞番御内用兼務となる。以後,公用方の中心人物として公武合体に努めた。「温和ニシテ怜悧,能ク人ト応接シ,能ク尽言ヲ容ル。内外親疎皆其歓心ヲ得」との評がある。<参考文献>家近良樹『会津藩公用方(局)の実態について』

(家近良樹)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野村左兵衛」の解説

野村左兵衛 のむら-さへえ

1815-1867 幕末の武士
文化12年生まれ。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。文久2年藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任にともない,京都の藩公用人となる。公卿(くぎょう)や各藩代表と交渉をすすめ,公武合体につくした。慶応3年5月19日死去。53歳。名は直臣。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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