野田卯太郎(読み)のだうたろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「野田卯太郎」の意味・わかりやすい解説

野田卯太郎
のだうたろう
(1853―1927)

明治・大正期の政治家、実業家。嘉永(かえい)6年11月21日、野田伊七の長男として筑後(ちくご)(福岡県)三池郡に生まれ、同姓野田森右衛門の養嗣子(しし)となる。号は大塊。自由民権運動に共鳴して九州改進党(自由党系)に入党、1885年(明治18)福岡県会議員、ついで1897年衆議院議員に当選。1900年(明治33)立憲政友会創立に参加して中央政界進出に成功し、以後同党の幹事長、院内総務、副総裁など要職を歴任した。原敬(はらたかし)内閣、高橋是清(たかはしこれきよ)内閣の逓(てい)相、護憲三派内閣の商相となる。また、早くから三池紡績社長をはじめ三池銀行、福岡県農工銀行の重役を兼ね、地方実業界にも確たる地位を占めていた。昭和2年2月23日没。

[畠山秀樹]

『坂口二郎著『野田大塊伝』(1929・同刊行会/復刻版・1995・大空社)』『『野田卯太郎(大塊)文書(1)(2)』(九州大学所蔵)』


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朝日日本歴史人物事典 「野田卯太郎」の解説

野田卯太郎

没年:昭和2.2.23(1927)
生年:嘉永6.11.21(1853.12.21)
明治大正期の政党政治家。筑後国(福岡県)三池郡岩津村に豪農野田伊七,イシノの長男として生まれる。号は大塊。一介の雑貨商であったが非常に活動的で,炭鉱関連で三井財閥と関係を持ち,また自由民権運動にも参加し福岡県会議員にもなる。明治31(1898)年,元老井上馨 の勧めによって立憲政友会から衆院選に出馬し当選,以後当選は10回におよぶ。のち井上の手足となって政界,財界,官界の間のまとめ役となる。しかし,第1次護憲運動(1912~13)では政友会幹事長として「閥族打破」の先頭に立ち,桂太郎を支持する井上の怒りを買う。その後,大正3(1914)年東洋拓殖会社副総裁,7年には政友会原敬内閣で逓信大臣となる。さらに,13年の第2次護憲運動でも指導者となり,護憲3派加藤高明内閣では商工大臣となる。精力的な活動,大柄な体格,そして不得要領な態度で「妥協の神様」とも呼ばれたが,一平民から大臣にまで昇り詰めた近代の象徴的な人物であった。<参考文献>坂口二郎『野田大塊伝』,石田秀人『野田大塊翁逸伝』

(季武嘉也)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野田卯太郎」の解説

野田卯太郎 のだ-うたろう

1853-1927 明治-大正時代の政治家。
嘉永(かえい)6年11月21日生まれ。福岡県会議員をへて,明治31年衆議院議員(当選10回)。政友会の創立に参加し,大正13年副総裁。原内閣,高橋内閣の逓信相,第1次加藤高明内閣の商工相をつとめる。三池紡績を創立するなど,実業界でも活躍した。昭和2年2月23日死去。75歳。筑後(ちくご)(福岡県)出身。

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