金刀比羅神社(読み)ことひらじんじや

日本歴史地名大系 「金刀比羅神社」の解説

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]相川町五郎左衛門町

町部やや南寄りの県道(両津―佐和田―相川線)山手にある。旧村社。祭神は大物主命・事代主命・崇徳天皇。古くは金毘羅権現といい、明治に入って現社名となる。「佐渡神社誌」によると、永禄三年(一五六〇)讃州金毘羅の別当金剛こんごう寺の慶順が来島。最初吉井よしい(現金井町)に勧請。寛永一七年(一六四〇)に弟子の宥順が渡島して現在地へ遷し、五郎左衛門ごろざえもん町を開発した山師の五郎左衛門が社殿を造立したという。別当は近くの馬頭山万福まんぷく院が務めた。神官は代々栗山氏で、宥順の子孫と伝える。延宝三年(一六七五)三丁目さんちようめの金児(鉱山請負)の吉十郎が宝館を建立。「佐渡国寺社境内案内帳」に吉十郎は「銀山割間歩わりまぶを稼ぎ、至つて困窮に及び、当社に心願を掛け、七枚棚の大盛を得、其の節の心願に依て、今に宝前へ鏈叺くさりかます(鉱石を入れる叺)を供ふ」とあり、鉱山関係者が八〇センチ四方の藁叺を神前に奉納するならわしが近年までみられた。

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]徳島市勢見町一丁目

山の南東麓、国道四三八号(旧土佐街道)西側にある。主祭神は大物主命。旧郷社。阿波三金刀比羅の一。元和二年(一六一六)蜂須賀家政により勝浦かつうら西須賀にしずか(現徳島市勝占町)勝占かつら神社境内にあった金刀比羅大権現が現在地に移されたと伝える(阿淡年表秘録)。「阿波志」には金毘羅祠とあり、天正年中(一五七三―九二)の移転とし、祭料二石とある。寛保改神社帳は名東みようどう下八万しもはちまん村の神社として金毘羅大権現を記し、別当は同村長久ちようきゆう寺が勤めた。「翁物語」には寛永一〇年(一六三三)の益田豊後事件に関連して、徳島藩主が「勢見山金毘羅」の霊夢により旧臣中村左近を召還した逸話が載る。

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]峰山町字泉

峰山市街を南北に走る本町ほんまち通の南端東側に位置する。祭神は大物主命。旧府社

明治前は金毘羅宮といい、小象山と号した。峯山藩主六代京極高久は多度津たどつ(現香川県仲多度郡多度津町)京極家から峯山に入り、その縁で郷里の金刀比羅宮(現香川県仲多度郡琴平町)を勧請しようとしたが果せず、文化八年(一八一一)七代高備の時に実現した。勧請には増長ぞうちよう院の尊光が当たった。峯山藩は増長院に金毘羅宮の別当を命じ、賽銭は讃岐の本社と増長院と藩で三分し、藩はこれに寄付物を加えて社の修繕や普請にあてることにし、祭礼には徒士目付以下の役人を、縁日には小役人六人を派遣するように定めている(金毘羅宮記)

文化一二年藩の立てた禁制札に「花表より上ニ商之事」とあり、すでに相当の賑いがあったことがわかる。

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]根室市琴平町

根室港を見下ろす丘の上にある。主祭神は大物主大神、事代主神と倉稲魂神を合祀する。一八〇〇―一〇年代に高田屋嘉兵衛がのちの松ヶ枝まつがえ町に創建したという(明治神社誌料)ネモロ場所請負人は高田屋から藤野喜兵衛(柏屋)に、さらに山田屋文右衛門・浜田屋兵四郎・白鳥宇右衛門と代わるが、いずれも当社を尊崇したという(同書)

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]秋田市土崎港中央六丁目

実城じつじよう院に隣接する。祭神は大物主神・崇神天皇。明治元年(一八六八)の神仏判然令以前の祭神は金毘羅大権現。弘化三年(一八四六)の絵図では、御休所の東、山屋敷に接して「金毘羅山」がある。由緒を記した「適産調」には次のようにある。

<資料は省略されています>

この奇瑞と神恩に感じ、宇八が発願主となって神殿を建築したとある。しかし一説には湊の廻船問屋間杉五郎八・本間多左衛門が若狭小浜西津おばまにしづ(現福井県小浜市)の豪商古川屋嘉太夫の氏神金毘羅社を勧請、享保八年(一七二三)に山屋敷本間家別邸に祀り、宝暦九年(一七五九)現在地に移し、社殿は大坂商人大和屋宇八の寄付によるという(土崎港町史)

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]鳴門市撫養町木津

木津きづ山の南麓にあり、木津川の湾曲部に面している。主祭神は大物主命・猿田彦命。阿波三金比羅の一社。旧郷社。寛保改神社帳には金毘羅大権現、「阿波志」には金毘羅祠とあり、慶長六年(一六〇一)の勧請という。社伝では撫養むや城主益田氏によって建立されたとされる。別当は隣接する長谷ちようこく寺、神主は信濃大夫が勤めた(寛保改神社帳)。徳島藩主蜂須賀家の崇敬がとくに厚く、忠英のとき社殿が修復され、寛永一九年(一六四二)には神事料や祭具などの供進も行われた(徳島県神社誌)。撫養一帯を拠点とする廻船業者・商人の信仰をも集め、当社の玉垣に刻まれている寄進者名は撫養二四ヵ村をはじめ名東みようどう郡・板野いたの郡・阿波郡の廻船業者や藍問屋であり、淡路・讃岐・備前・尾張・和泉の人々の名も並んでいる。

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]長崎市坂本二丁目

金比羅こんぴら山麓に鎮座。江戸時代神宮寺という仏寺号を称していた。旧郷社。祭神は大物主大神で、相殿に崇徳天皇・菅原道真を祀る。宝永二年(一七〇五)八幡やはた町の当山派修験の吉祥院長慶が町乙名の木下潤蔵の援助で讃岐国金刀比羅宮の分霊を勧請、金刀比羅山頂の石窟に祀ったことに始まるという。祭祀以前はこの山は瓊杵にぎ山とも、無凡むぼん山とも称されていた。正徳三年(一七一三)参拝に不便として麓に拝殿を設けた。享保三年(一七一八)社地三反の寄進があった。同一〇年無凡山の山号をもって神宮寺を復活させるが、同寺は弘仁年間(八一〇―八二四)嵯峨天皇の勅願で現在の諏訪神社などの一帯を境内として建立され、元亀―天正年間(一五七〇―九二)キリシタンによる社寺の焼打ちで荒廃していたと伝える。

金刀比羅神社
こんぴらじんじや

[現在地名]石岡市国府六丁目

石岡の市街地の南、旧国道に面して鎮座する。祭神は大物主神・崇徳天皇。配祀は経津主命。

茨木外城ばらきとじようカンドリの地に常陸大掾氏の軍神・守護神として香取神社が勧請され、のち現在地に遷宮される。現在地は中世には森木もりのきもりといい、香取神社は森木氏知行分田地注文(総社文書)に「森木殿知行分」として「米吉内 三反香取神田宿迫」と記される。別当職は森木寺に在籍する大掾一族の八代院が勤めていた。また現在は焼失した棟札には、貞享二年(一六八五)九月に別当の八代院涼先が香取神宮を改築し、香取大権現堂宇と称し、のち寛延元年(一七四八)にも改築され、香取大明神と称したとある。

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]徳島市川内町 宮島

宮島本浦みやじまもとうらに鎮座する旧郷社。阿波三金比羅の一。祭神は大物主命、相殿に大麻比古命・天照大神・菅原道真・大己貴命・崇徳天皇・素戔嗚命・木花咲耶姫命・事代主命・市杵島姫命を祀る。慶長六年(一六〇一)の創建とされる(阿波志)。寛保改神社帳には金毘羅大権現とみえ、別当は宮島浦円明えんみよう院であった。徳島藩主参勤の時には当社に海上安全の祈願のため参詣したという。海運業によって経済力を蓄えた阿波商人によって、当初小祠であった当社は社殿が整えられたという。

金刀比羅神社
ことひらじんじや

[現在地名]北房町下中津井

上町かみまちにある。享保年間(一七一六―三六)修験者が守護していた小祠が洞厳どうげん山中腹にあったが、延享元年(一七四四)領主石川総慶が中津井なかつい陣屋を開設した際に金毘羅宮を勧請、以後代々代官の尊崇を受け、米一石が奉納された(中津井誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「金刀比羅神社」の解説

金刀比羅神社〔和歌山県〕

和歌山県西牟婁郡白浜町にある神社。1836年、讃岐の金毘羅大権現を勧進して創建と伝わる。祭神は大己貴命、事代主命など。明治以降の神社合祀令により一時は廃社となったが、村民有志の運動により復社した。国指定名勝「南方曼陀羅の風景地」の構成地のひとつ

金刀比羅神社〔北海道〕

北海道根室市にある神社。「ことひらじんじゃ」と読む。1806年創祀。祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。

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