金地院(読み)コンチイン

デジタル大辞泉 「金地院」の意味・読み・例文・類語

こんち‐いん〔‐ヰン〕【金地院】

京都市左京区にある南禅寺塔頭たっちゅうの一。応永年間(1394~1428)、大業徳基が北山に開山し、慶長年間(1596~1615)に、崇伝すうでんが現在地に移した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「金地院」の意味・読み・例文・類語

こんち‐いん ‥ヰン【金地院】

[一] 京都市左京区南禅寺福地町にある南禅寺の塔頭(たっちゅう)の一つ。応永年間(一三九四‐一四二八)大業徳基の開基で、崇伝(すうでん)が現在地に再興。方丈の襖絵(ふすまえ)は狩野(かのう)派の作、茶室八窓席・庭園は小堀遠州の作として知られる。所蔵の渓陰小築図・秋景冬景山水図は国宝。
[二] 東京都港区芝公園にある臨済宗南禅寺派の寺。山号は勝林山。はじめ崇伝の宿坊として駿府(静岡市)に創建されたが、元和四年(一六一八)現在地に移転。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「金地院」の解説

金地院
こんちいん

南禅寺塔頭の一。三門の南西にある。本尊地蔵菩薩蘭渓道隆の法脈(大覚派)を継ぐ大業徳基(南禅寺六八世住持)の開山。寺伝はもと洛北たかみね(現京都市北区)にあったと伝えるが詳細は明らかでない。藍田崇瑛(南禅寺一五二世住持)・靖叔徳林(同二六二世住持)を経て、江戸時代初期に以心崇伝(同二七〇世住持)に相伝された。金地院が南禅寺の地に再興されたのは崇伝が南禅寺に住持した慶長一〇年(一六〇五)頃と推定される(南禅寺史)。崇伝は同一三年に駿府すんぷ(現静岡市)徳川家康に召されて外交文書の事に関係した。その権勢が増すにしたがい改増築も行われたようで、崇伝が同一七年四月二六日に駿府の後藤庄三郎にあてた書状(本光国師日記)には「拙老事、此地小普請なと申付度候間、今少可致逗留候、其内ニも指急罷下可然と思召候者、急便ニ被仰聞可被下候、御左右次第ニ可罷下候」とみえる。

寛永三年(一六二六)崇伝が円照本光国師の号を許された後、金地院では大工事が進められ、山門・方丈・庫裏・東照宮および庭園の作事があり、面目を一新した。

金地院
こんちいん

[現在地名]港区芝公園三丁目

臨済宗南禅寺派の寺院で、勝林山と号する。本尊は宋人陣和郷作という観音菩薩。開山は以心崇伝(本光国師)。崇伝は慶長一〇年(一六〇五)頃京都南禅寺金地こんち院の住持となり、同一五年徳川家康に召され、政治顧問となって居寺として駿府城内に金地院を創設した。元和五年(一六一九)当地に金地院を建立。同年崇伝が僧録に任命されて以後、幕末まで歴代住職が僧録に就き、鹿苑僧録・陰涼職に代わり五山寺院の支配的地位を得た。山城国金地院(現京都市左京区)に対し、朱印地として同国葛野かどの安井やすい(現京都市右京区)に二〇〇石、朱雀すじやく(現同市下京区)に二〇石余、愛宕おたぎ北山きたやま(現同市北区)に一一二石余、静原しずはら(現同市左京区)に一八七石余、市原いちはら(現同上)に八四石余、紀伊郡東九条ひがしくじよう(現同市南区)に四石余、下三栖しもみす(現同市伏見区)に九〇石余の計七〇〇石が与えられている(寺社書上・「芝区誌」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「金地院」の意味・わかりやすい解説

金地院 (こんちいん)

京都市左京区にある臨済宗南禅寺の塔頭(たつちゆう)。徳川家康の側近として幕府の政治の枢機に列した黒衣(こくえ)の宰相,以心崇伝が住んだ寺である。当寺は,古く室町時代,南禅寺の住持だった大業徳基によって洛北の鷹峯に開創されたというが,そののち衰微し,崇伝が南禅寺の住持となった1605年(慶長10)ごろに,崇伝によって現地に移され復興した。そののち,崇伝が駿府の家康に召され重用されるにつれ,当院は南禅寺の多くの塔頭の中でも最も権勢ある塔頭となって,江戸時代を推移した。そして,26年(寛永3)に崇伝が円照本光国師の号を許された直後から数年間にわたって,大工事が小堀遠州の指揮のもとで行われ,方丈・庫裏・東照宮・茶室・庭園など,当時の崇伝の地位にふさわしい堂々とした寺観が整えられた。一塔頭の内に東照宮が建立されたことはきわめて珍しく,家康をしのぶ崇伝の心情を伝えて,当寺の歴史にふさわしい。なお,1610年(慶長15)に家康によって駿府に,19年に家康の遺命によって江戸にも,それぞれ崇伝のために金地院が建てられた。崇伝は,京都・駿府・江戸の3寺を往還しながら幕政の枢機に列したが,崇伝の没後,駿府金地院は廃絶した。1615年(元和1)の大坂落城のあと,崇伝は僧録司に任ぜられたが,そののち維新まで金地院の代々の住持は,臨済宗の五山派の寺院と僧侶を統制するこの職を兼ねた。これを世に金地僧録と言い,近世臨済界に当院住持は君臨することとなった。
執筆者:

院内の建築のうち,方丈(桃山時代,重要文化財)は北西の室が上段の間となり,床,違棚,付書院,帳台構(ちようだいがまえ)を構え,近世書院造住宅の座敷飾の典型。また障壁画は狩野探幽を中心とした江戸狩野の作。方丈北側の小書院の一隅にある八窓席(1628,重要文化財)は小堀遠州好みの三畳台目茶室。東照宮(1628,重要文化財)は本殿,石の間,拝殿からなる権現造の一例。庭園は小堀遠州の作になり,施工には家臣村瀬左介,職人賢庭が関係したことが知られ(《本光国師日記》),石組みの鶴島,亀島を配すことから鶴亀庭ともよばれる。寺宝に,絵画では北宋の徽宗朝ころの山水画の典型とされる《秋景冬景山水図》(国宝,足利将軍家伝来。もとは山梨県久遠寺蔵の《夏景山水図》とともに四季山水図を構成した),室町時代初期水墨画として貴重な《渓陰小築図》(国宝)などがあり,書跡では崇伝自筆で江戸初期の根本史料の一つとされる《本光国師日記》や《異国日記》《異国渡海御朱印帳・異国近年御書草案》《異国日記御記録雑記》《慶長十九年林道春及五山衆試文稿》《濃比須般(のびすぱん)国ヘノ返書案》(いずれも重文)がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金地院」の意味・わかりやすい解説

金地院
こんちいん

京都市左京区にある臨済宗南禅寺の塔頭。大業徳基により応永年間 (1394~1427) に創建されたと伝えられ,慶長 10 (1605) 年に以心崇伝が南禅寺塔頭として再興した。寛政2 (1790) 年の『禅宗済家五山僧録司金地院牒』には御朱印高七百石と記される。所蔵される『本光国師日記』は原本であり,方丈や東照宮本殿,東照宮石の間,東照宮拝殿,八窓席とともに,重要文化財。絵画では足利義満が蔵していた『秋景冬景山水図』,応永 20 (1413) 年明兆筆とされる墨画『渓陰小築図』がともに国宝に指定されている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「金地院」の意味・わかりやすい解説

金地院【こんちいん】

南禅寺(なんぜんじ)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金地院」の意味・わかりやすい解説

金地院
こんちいん

南禅寺

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の金地院の言及

【南禅寺】より

…江戸時代の寺領は892石余で推移し,明治維新で大きな打撃を受け,とくに多くの塔頭が廃滅した。現在,山内塔頭に鎌倉期の庭園で有名な南禅院,細川幽斎が復興した天授庵,山名宗全が建立した真乗院,黒衣の宰相といわれた以心崇伝が中興した金地院(こんちいん),元禄時代(1688‐1704)から名物の湯豆腐を供する聴松(ちようしよう)院など11ヵ寺があり,また全国に末寺400余を数える。【藤井 学】
[文化財]
 伽藍は西を正面とし,背後に東山を負う。…

【本光国師日記】より

…また易占や古筆の鑑定に関する記事も多く,文化史上も貴重である。原本は南禅寺金地院(こんちいん)所蔵。【高木 昭作】。…

※「金地院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android