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明治~昭和前期の官僚政治家。福岡藩士の家に生まれ,藩校修猷館に学び,明治維新後,旧藩主に従ってアメリカに留学,ハーバード大学で法律学を修めた。1880年元老院に出仕,各国憲法の調査に当たり,84年制度取調局の設置にともない,立憲制移行にともなう諸法制の整備に関与した。86年からは伊藤博文のもとで井上毅,伊東巳代治らとともに憲法,皇室典範や憲法付属の法典の起草に当たり,とくに貴族院令,衆議院議員選挙法の立案を担当した。94年農商務次官となり,日清戦争後の産業育成政策を立案,指導した。また伊藤系官僚として第3,第4次伊藤内閣の農商務大臣,司法大臣をつとめ,その間1900年の伊藤の政友会結成には創立委員,総務委員に選ばれた。日露戦争中には渡米しハーバード大学時代の級友ローズベルト大統領と折衝,アメリカ国内の対日世論工作に当たった。06年枢密顧問官となり,27年の台湾銀行救済問題や30年のロンドン海軍軍縮条約問題では政府批判の立場をとり,また,天皇機関説問題でもこれを批判した。臨時帝室編修局総裁として《明治天皇紀》(1933完成)を編修,維新史料編纂会総裁として《維新史》(1941まで)などを編纂した。
執筆者:宇野 俊一
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(長井純市)
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明治時代の官僚、政治家。伯爵。嘉永(かえい)6年2月4日生まれ。福岡藩出身。1871年(明治4)藩主黒田長知(くろだながとも)に随行して渡米、1878年ハーバード大学法律学科を卒業して帰国。同級に後の大統領セオドア・ルーズベルトがいた。伊藤博文(いとうひろぶみ)の知遇を得、1885年総理大臣秘書官となり、ついで枢密院議長秘書官から貴族院議員になる。この間、明治憲法の調査起草にあたり、とくに衆議院議員選挙法や貴族院令など付属法の起草に貢献。1898年第三次伊藤内閣の農商務相、1900年(明治33)第四次伊藤内閣の司法相を歴任した。1906年枢密顧問官となり、自ら「憲法の番人」と称していた。維新史料編纂会(へんさんかい)総裁として歴史の編纂にもあたった。昭和17年5月16日没。
[佐々木克]
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1853.2.4~1942.5.16
明治~昭和前期の官僚政治家。筑前国生れ。福岡藩士の子。藩校修猷館・ハーバード大学に学び,伊藤博文の知遇を得る。元老院権少書記官を皮切りに首相秘書官・枢密院書記官などを歴任し,伊藤の憲法制定作業を助けた。1890年(明治23)貴族院書記官長となり,農商務次官をへて第3次伊藤内閣の農商務相,第4次伊藤内閣の司法相を務めた。この間,98年の伊藤の新党計画や政友会創立に関与。日露戦争に際してはアメリカに特派され,ハーバード大学で同窓のセオドア・ローズベルト大統領らに接触してアメリカ世論の親日誘導にあたった。1906年枢密顧問官,昭和前期まで長老として活動した。伯爵。
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…そののち速記の利用分野は口述(矢野竜渓《経国美談》),講演(外山正一《漢字廃すべき論》),地方議会(埼玉県会)などに及んだが,とくに三遊亭円朝述《怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)》(1884)に始まる講談速記(速記本)は広く世人に親しまれ,また言文一致の推進力ともなった。当時の最大の目標は帝国議会の速記であったが,これも金子堅太郎(初代貴族院書記官長)の英断によって第1議会(1890)から実現し,日本憲政史の大きな誇りとなった。そのため田鎖には1894年には藍綬褒章(らんじゆほうしよう),96年には年金300円終身下賜ということまで行われた。…
※「金子堅太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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