鈴木朖(読み)すずきあきら

精選版 日本国語大辞典 「鈴木朖」の意味・読み・例文・類語

すずき‐あきら【鈴木朖】

江戸後期国学者。通称常介。号は離屋(はなれや)尾張国(愛知県)の人。はじめ漢学を修め、寛政四年(一七九二本居宣長の門にはいった。語学にすぐれ、「雅言訳解」などを著わし、平田篤胤の語学説に影響を与えた。また、名古屋藩校明倫堂で国学を講じた。主著「言語(げんぎょ)四種論」「活語断続譜」「雅言音声考」「玉の小櫛補遺」など。明和元~天保八年(一七六四‐一八三七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「鈴木朖」の意味・読み・例文・類語

すずき‐あきら【鈴木朖】

[1764~1837]江戸後期の国学者。尾張の人。号、離屋はなれや本居宣長もとおりのりながの門下。品詞・活用・語源などの研究に努めた。著「言語げんぎょ四種論」「活語断続譜」「雅語音声考がごおんじょうこう」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鈴木朖」の意味・わかりやすい解説

鈴木朖
すずきあきら
(1764―1837)

江戸後期の国学者、儒学者。名は朖・朗ともに用いる。字(あざな)は叔清、通称は常介(助)、号は離屋。宝暦(ほうれき)14年3月3日尾張(おわり)国西枇杷島(にしびわじま)(愛知県清須(きよす)市)に生まれ、のち祖父鈴木氏を相続する。12歳で徂徠(そらい)学の市川鶴鳴(いちかわかくめい)の門に入る。20歳ごろから国学にも関心をもち、1792年(寛政4)29歳のとき本居宣長(もとおりのりなが)の門に入る。晩年、尾張藩校明倫堂教授並となり、天保(てんぽう)8年6月6日、74歳で没。国学上の著書に、日本語を「体ノ詞(ことば)・形状(ありかた)ノ詞・作用(しわざ)ノ詞・テニヲハ」の4種に分類して説いた『言語四種(げんぎょししゅ)論』、切れ続きによる活用語の活用の仕方を整理した『活語断続譜』(1803ころ成立)、音声で物事を象(かたど)り写した言語について説いた『雅語音声(おんじょう)考』(1816)などがあり、漢学上の著書に『大学参解』(1803成立)『論語参解』『希雅』(1816)などのほか、学問について述べた『離屋学訓』(1828)などがある。とくに『活語断続譜』は写本で伝わったが、結果的に富士谷成章(ふじたになりあきら)、本居宣長の活用語研究の成果を統一し、本居春庭(はるにわ)の『詞(ことば)の八衢(やちまた)』の成立に影響を与えた。

[古田東朔 2018年10月19日]

『時枝誠記「鈴木朖の国語学史上に於ける位置」(『国語と国文学』1927.1所収・至文堂)』『岡田稔・市橋鐸著『鈴木朖』(1967・鈴木朖顕彰会)』『鈴木朖学会編・刊『文莫』各年刊(1976~2007)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「鈴木朖」の解説

鈴木朖

没年:天保8.6.6(1837.7.8)
生年:明和1.3.3(1764.4.3)
江戸後期の国学者。尾張藩士。尾張国(愛知県)春日井郡の医師山田重蔵とソノの3男として生まれた。幼名恒吉,通称常介,字叔清。住んでいた部屋が母屋から離れていたところから号は離屋。朖は名。12歳にして徂徠学派の市川鶴鳴に入門,15歳のときに『張域人物志』の「文苑」に載るほど叡才を知られていた。天明1(1781)年,18歳で町儒者の祖父鈴木林右衛門の家名を相続した。20歳のころから国学に関心を示し,天明5年,本居宣長の『紐鏡』を筆写し,その末に『詞の玉緒』の抄を作った。寛政4(1792)年には鈴屋入門,同年刊の宣長著『馭戎慨言』の序文を書いた。藩士としては7年に御近習組同心として初出仕,御記録所書役を経て,晩年の天保4(1833)年には藩校明倫堂の教授となり,国学を講じた。著作には漢学関係もあるが,著しい成果を挙げたのは国語学の分野である。『言語四種論』は言語を「体ノ詞」「形状ノ詞」「作用ノ詞」「テニヲハ」の4種に分類することを説いたもの。『活語断続譜』は用言の活用形を研究し,いわゆる活用図を作った点で画期的であった。また『雅語音声考』は言語の発生について論じたものであり,国語学史上注目されている。朖は逸話に富む人で,剽軽な行動で知られる。講書の謝礼について「菓子より砂糖,砂糖より鰹節,鰹節より金」と玄関に書していたという。養生をおかしく詠んだ「味噌で飲む一ぱい酒に毒はなし煤けたかかに酌をとらせて」という狂歌がある。<参考文献>鈴木朖顕彰会『鈴木朖』

(飯倉洋一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「鈴木朖」の意味・わかりやすい解説

鈴木朖 (すずきあきら)
生没年:1764-1837(明和1-天保8)

江戸後期の漢学者,国語学者。通称は常介,字は叔清,号は離屋。名古屋西枇杷(びわ)島に生まれ,学問で尾州侯に仕え,晩年には藩校明倫堂の教授をつとめた。多くの著書のうち,次の3種は国語学史上に大きな意味をもつ。《活語断続譜》は1803年(享和3)以前に成り,本居宣長の説に富士谷成章の考え方を調和して,活用を1等から8等の段(のちに7段)に整理し,助辞への接続を明らかにした。《雅語音声(おんじよう)考》は16年(文化13)の刊行で,単語に擬声・擬態起源のものの多いことを4種に分けて説いた。《言語(げんぎよ)四種論》は24年(文政7)の刊行で,品詞分類,ことに〈てにをは〉の働きについての考え方が注目される。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鈴木朖」の意味・わかりやすい解説

鈴木朖
すずきあきら

[生]宝暦14(1764).3.3? 尾張
[没]天保8(1837).6.6?
江戸時代後期の国学者,漢学者。幼名は恒吉,通称は常介,字は叔清,号は離屋。父は医師山田重蔵,母ソノ。初め市川匡門に入門,古文辞学派の儒者となったが,のち本居宣長に傾倒,寛政4 (1792) 年に入門,その没後春庭門に入った。天保4 (1833) 年に明倫館教授に登用され,国学も講じた。著書に『活語断続譜』 (03以前成立) ,『雅語音声考』 (16) ,『言語四種論』 (24) のほか『大学参解』『論語参解』『希雅』『玉の小櫛補遺』『雅語訳解』『離屋学訓』など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鈴木朖」の解説

鈴木朖 すずき-あきら

1764-1837 江戸時代後期の国学者,儒者。
宝暦14年3月3日生まれ。本居宣長(もとおり-のりなが)にまなぶ。文政4年尾張(おわり)名古屋藩の藩儒。晩年に藩校明倫堂の教授並となり,国学を講じ,言語学にすぐれた。天保(てんぽう)8年6月6日死去。74歳。本姓は山田。字(あざな)は叔清。通称は常介。号は離屋(はなれや)。著作に「活語断続譜」「雅語音声考(おんじょうこう)」「言語(げんぎょ)四種論」など。
【格言など】菓子より砂糖,砂糖より鰹節,鰹節より金(講義の謝礼の例として,玄関にかかげたことば)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「鈴木朖」の解説

鈴木朖 (すずきあきら)

生年月日:1764年3月3日
江戸時代中期;後期の国学者
1837年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鈴木朖の言及

【尾張国】より

… 藩祖義直は家康から多数の書籍を譲られ,自身も《類聚日本紀》174巻を編纂し好学の藩風をつくり,尾張独自の考証学風を生み出した。河村秀根の《書紀集解》30巻や岡田新川らによる《群書治要》の校刊と《孝経鄭氏解》の刊行,鈴木朖(あきら)の《言語四種論》,さらに本居宣長の《古事記伝》の名古屋出版等によって学問的風潮は庶民の間にも広まった。城下で松尾芭蕉を中心に門人らによって正風開眼がなされ,俳諧の結社は農村にまで及んだ。…

【国語学】より

…しかしながら,この書がきっかけとなって,研究の関心の中心は,〈てにをは〉から,活用に移っていった。まず,鈴木朖(あきら)が出て,《活語断続譜》を著した。彼は,宣長が27に分けた活用のすべてに対し,活用形の用法による相互の対応を明らかにした。…

※「鈴木朖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android