鎌刃城跡(読み)かまはじようあと

日本歴史地名大系 「鎌刃城跡」の解説

鎌刃城跡
かまはじようあと

[現在地名]米原町番場

番場ばんばの南東部山稜に築かれた城で、当初は箕浦みのうら庄地頭土肥氏が拠城したと伝え、のち堀氏が入城した。「今井軍記」に文明四年(一四七二)八月一一日のこととして「堀次郎左衛門城合戦」とみえ、また同一八年一二月二日には「堀の城」に今井八郎五郎が討入り、手傷をうけながらも功をあげている。この堀氏の城は鎌刃城をさすものと思われる。鎌羽とも記し、別に釜川かまがわ城との呼称も伝える。天文二年(一五三三)六角定頼は今井定清に当城を攻めさせ(島記録)、同四年七月六日の六角定頼書状(同書)には当城の残兵を捕らえたとき浅井方の野村伯耆守の書状が多く見つかったとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「鎌刃城跡」の解説

かまはじょうあと【鎌刃城跡】


滋賀県米原(まいばら)市番場にある城跡。市の東部、当時の京極(きょうごく)領と佐々木六角(ろっかく)領の境にある標高384mの山稜に位置する、中世の山城跡である。周辺には、佐和山(さわやま)城や菖蒲嶽(しょうぶだけ)城、太尾山(たおやま)城、磯山(いそやま)城などがある。築城年代は不明だが、『今井軍記』には1472年(文明4)の京極家の家臣による鎌刃城攻めが記されていることから、応仁の乱の時期には築城されていたものと考えられている。また、天文年間(1532~55年)には近江守護だった六角氏により、鎌刃城に在城していた京極家家臣の堀氏攻めが行われている。堀氏はこの時期、六角氏側や浅井(あざい)氏側についたりしたが、1570年(元亀1)に織田信長に通じて浅井氏に対抗するようになる。1574年(天正2)に堀氏は信長によって罷免(ひめん)され、城内に備蓄されていた米2000俵が徳川家康に与えられたことが記され、この後、鎌刃城は廃城となったと思われる。城跡の遺構は東西約400m、南北約500mで、江北地方では浅井氏の居城小谷(おだに)城跡に次ぐ規模である。主郭を中心に北方尾根上に7ヵ所、南方尾根上に2ヵ所、西方尾根上に8ヵ所の曲輪(くるわ)を設け、主郭を含む一部の曲輪は周囲を石灰岩石積みで構築している。また、尾根の先端はすべて堀切りで防備され、西方尾根には連続竪堀(たてぼり)群が見られる。発掘調査の結果、北方尾根上の曲輪からは半地下式の南北8間、東西7間と想定される大規模な総柱の礎石建物が発見され、大量の鉄釘も出土した。主郭の虎口(こぐち)などは直進する平虎口構造であることもわかり、おもな曲輪の石積みとともに織豊期以前の築城技術の到達点といえる。出土した遺物は調理具や貯蔵具、供膳具などで、城内で生活していたことがわかり、出土陶磁器の年代から16世紀中ごろと位置づけられる。破城の実態が発掘調査によって確認された数少ない城跡で、わが国戦国時代の歴史や築城技術を考えるうえでも貴重なことから、2005年(平成17)に国の史跡として指定され、同年に追加指定を受けている。JR東海道新幹線ほか米原駅から湖国バス「称揚寺(しょうようじ)」下車、徒歩約40分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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