長山城(読み)ながやまじょう

日本の城がわかる事典 「長山城」の解説

ながやまじょう【長山城】

岐阜県可児(かに)市にあった中世から戦国時代にかけての山城(やまじろ)。同市指定史跡。本能寺の変で織田信長を討った明智光秀につらなる美濃の武将明智氏(美濃の土岐氏の支流)が居城としていた。名前どおり、東西に延びる長い尾根を持つ山に築かれた典型的な中世の山城の縄張りを今に伝える城郭である。明智城とも通称されているが、同県内には恵那市にもう一つの明智城がある。『美濃国緒旧記』によれば、美濃土岐氏の5代土岐頼清の二男土岐頼兼が築城し、明智氏を称して明智光秀の代まで居城としたとされる。光秀の出生地は明智城(恵那市)とも、この城ともいわれる。戦国時代、土岐氏から美濃国を奪って戦国大名となった斎藤道三は、東美濃地方の土岐一族を懐柔するため、長山城主の明智光継の娘小見の方を正室に迎えた。小見の方は、のちの織田信長正室濃姫の母に当たる。また、光継の孫が光秀とされる(ただし、諸説ある)。1556年(弘治2)に父斎藤道三を長良川の合戦で討って美濃国主となった斎藤義龍(道三の長男)は、同年9月、道三に味方した明智一族を討つべく、関城(安桜山城、関市)の城主・井道利を大将として長山城を攻めた。明智光安(宗宿、光秀の叔父)と弟光久は城に籠城して斎藤氏の軍勢に抗したが、ついに落城し、自刃した。『明智軍記』によれば、このとき光秀は明智家再興を託されて城を逃れたといわれる。現在、城跡には本丸跡や曲輪(くるわ)・土塁、竪堀などの遺構が比較的良好な状態で残り、光蓮寺の東から山頂へと延びる大手道が明智城址散策道として整備されており、散策道の左右に曲輪群が配置され、右手には竪堀も見えてくる。また、明智城址の北麓にある天竜寺には、日本一大きな明智光秀の位牌と明智氏歴代の墓所がある。名鉄広見線明智駅から徒歩約15分。明知鉄道にも同名の明智駅(恵那市)があるが、場所の離れた別の駅なので注意。◇明智城、明智長山城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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