長崎街道(読み)ながさきかいどう

日本歴史地名大系 「長崎街道」の解説

長崎街道
ながさきかいどう

中国路と肥前国長崎を結ぶ街道で、宿駅名で示すと豊前国大里だいり(現北九州市門司区)から筑前国原田はるだ(現筑紫野市)までが福岡県内となる。別称として肥前街道・冷水越ひやみずごえ道・小倉道などがある。筑前国内では、この街道に六つの宿駅があるので六宿むしゆく(続風土記拾遺)と称した。豊前・筑前の元禄国絵図でそのおもな行程をたどると、豊前国大里―小倉城下―筑前国黒崎くろさき(現北九州市八幡西区)木屋瀬こやのせ(現同上)―飯塚―内野うちの(現筑穂町)山家やまえ(現筑紫野市)―原田となり、黒崎以下の六ヵ所が筑前六宿である。長崎街道の起点は小倉城下の常盤ときわ橋とされるが、近世中期以降は大里に変化したという(歴史の道調査報告書「長崎街道」)

〔街道の成立以前〕

 慶長筑前国絵図には長崎街道にあたる道は描かれていない。また正徳四年(一七一四)の二日市宿庄屋覚書には「古しへハ冷水道もなく山家の宿もなく原田宿もなく」と記され、長崎街道の成立は慶長一六年(一六一一)の冷水越(現在の筑穂町と筑紫野市の間)の開削以後となる。同覚書はそれ以前の上方から長崎への道として箱崎はこざき(現福岡市東区)二日市ふつかいち(現筑紫野市)―肥前国田代たしろ(現佐賀県鳥栖市)の道をあげている。また慶長筑前国絵図では日田街道御笠みかさ針摺はりすり(現筑紫野市)から原田村を経て肥前国に続く道が描かれる。しかしこの二つの道は唐津街道と日田街道を利用するかなりの迂回路であった。これ以外の肥前国への道で最も古いのは、文明一二年(一四八〇)の宗祇の「筑紫道記」に記された筑前国若松わかまつの浦(現北九州市若松区)木屋こやの関(木屋瀬)長尾ながお(現筑穂町)蘆城あしき(現筑穂町と筑紫野市の間の米ノ山峠)宰府さいふ聖廟(現太宰府市)に至る道で、大半が後の長崎街道に沿った道である。

長崎街道
ながさきかいどう

西海道の中心をなす街道の一つで、大里おおさと(現福岡県北九州市)の港を起点に経路を宿駅順に追うと、小倉こくら黒崎くろさき木屋瀬こやのせ飯塚いいづか内野うちの山家やまえ原田はるだ(以上現福岡県)から現在の佐賀県に入って田代たじろ(現鳥栖市)に至るが、ここまでは薩摩街道と重複している。田代からの経路は佐賀藩領に入るが、泰国院様御年譜地取の天明三年(一七八三)八月に、それより先の経路が左のように記されている。

<資料は省略されています>

長崎へ至る道筋は右の三筋があるが、道中絵図類には第二の塩田しおた通がみえる。しかしここでは塩田通が第一にあげられていないのは、この沿道にある塩田川が毎年氾濫し交通が途絶えることが多かったため、これを避けて小田おだ(現杵島郡江北町)北方きたがた(現杵島郡北方町)塚崎つかさき(現武雄市)経由の彼杵そのぎ通が利用されるようになったためである。元禄四年(一六九一)ケンペルや享保一三年(一七二八)下向の長崎奉行三宅周防守は、ともに塩田通を通っているが、延享二年(一七四五)の長崎奉行松波備前守の下向は塚崎経由であり、これ以後の長崎奉行はすべて塚崎経由の彼杵通を利用している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長崎街道」の意味・わかりやすい解説

長崎街道
ながさきかいどう

九州の北端、豊前(ぶぜん)国小倉(こくら)から北西端にあたる肥前(ひぜん)国長崎に至る旧街道。小倉から黒崎で筑前国に入り、筑前六宿(むしゅく)街道といわれる黒崎、木屋瀬(こやのせ)、飯塚(いいづか)、内野(うちの)、山家(やまえ)、原田(はるだ)を経て田代(たしろ)に至る。この間、多くの丘陵・山地を越え、とくに、内野―山家間には冷水(ひやみず)峠の難所があった。田代で薩摩(さつま)街道を分岐し、原田の西方、轟木(とどろき)付近で肥前国に入り、中原(なかばる)、神崎(かんざき)、堺原(さかいばる)を経て佐賀城下に入り、牛津(うしづ)付近で唐津(からつ)街道を分岐している。さらに西方は北方(きたがた)、塩田(しおた)を経て嬉野(うれしの)に達したが、1717年(享保2)以後は北方から武雄(たけお)を経て嬉野に至る街道に変わり、以後、塩田宿場はさびれた。嬉野から大村湾岸、彼杵(そのぎ)に達し、大村湾岸を南下、大村・諫早(いさはや)を経て、橘(たちばな)湾岸の矢上(やがみ)に至り、日見(ひみ)峠を越えて長崎に至る。また、彼杵港から大村湾を渡り、時津(とぎつ)港を経て長崎に至る海上路も利用された。とくに、鎖国以後、長崎からこの街道の利用によって海外文化が流入され、その果たした役割は多大であった。

[石井泰義]

『奥村芳太郎編『九州路』(1972・毎日新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長崎街道」の意味・わかりやすい解説

長崎街道
ながさきかいどう

九州北西部 (小倉) ,佐賀,長崎両県を貫通する街道。延長約 130km。小倉から始り,特に黒崎,木屋瀬,飯塚,内野,山家,原田を筑前六宿といい,この六宿街道は特に薩摩街道,日田街道も合流する交通量の多い街道であった。さらに田代 (佐賀県鳥栖市) から筑紫平野の南西部を通り,佐賀,武雄を経て大村湾に沿い,諫早を経て長崎にいたる。江戸時代に長崎から上方,江戸方面への物資輸送の重要な陸路であった。途中で島原街道平戸往還を分岐した。

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デジタル大辞泉プラス 「長崎街道」の解説

長崎街道

江戸時代に整備された街道のひとつ。豊前国(ぶぜんのくに)小倉(現在の北九州市)と肥前国(ひぜんのくに)長崎(同長崎市)の約228kmを、25の宿場で結ぶ。海外から輸入された砂糖が運ばれたことから、シュガーロードとも呼ばれる。

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百科事典マイペディア 「長崎街道」の意味・わかりやすい解説

長崎街道【ながさきかいどう】

長崎路

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