長徳寺(読み)ちょうとくじ

精選版 日本国語大辞典 「長徳寺」の意味・読み・例文・類語

ちょうとく‐じ チャウトク‥【長徳寺】

〘名〙 (駿河国府中の片山にあった寺の名で、この座敷の借り賃が日に一分と定められていたことから) 金一分のこと。江戸時代の上方の遊郭で主に使われたことば
評判記・吉原恋の道引(1678)「是にも長徳寺一つ入なり」
[補注]一説に、一丁の意を寺名になぞらえた語ともいう。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「長徳寺」の解説

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]川口市芝

しば川と荒川との間の沖積地に位置する。大智山と号し、臨済宗建長寺派。本尊は地蔵菩薩。貞治三年(一三六四)に秀田等栄が鎌倉公方足利基氏の祈願所として建立したという(寒松稿)。秀田は師の古泉印元(鎌倉円覚寺二九世・同建長寺三二世)を開山に招き、自らは二世となっている。その後大用・虎渓・一岳などが住持に就いたが、近世初頭までは規模は小さかったようである。天正一〇年(一五八二)に一三世として入寺した龍派禅珠は復興に努めたが、同一八年豊臣秀吉軍の小田原攻めの際には岩付いわつき(現岩槻市)中に避難した。同城が落城すると平林寺(現同上)の泰翁や養竹ようちく(現川島町)の天麟などとともに城を出て難を逃れている(寒松稿)。文禄三年(一五九四)禅宗寺院と山伏との間で檀家の葬儀の執行をめぐる祭道公事の争論が起こった際、龍派は徳川家康に訴え出た(一一月二七日「龍派禅珠書状案」寺蔵)。翌四年家康から禅宗寺院が葬儀を行うべき旨の裁許を受けており(八月二八日「龍派禅珠書状」法華寺文書ほか)、家康の裁許はそれ以降の禅宗側の主張の論拠となっている。

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]岩国市大字長野

長野ながのの中心にある古寺で、臨済宗天龍寺派。護国山と号し本尊薬師如来。寺伝によれば応安二年(一三六九)の創建で、古くは真言宗であったという。

永禄一三年(一五七〇)それまで正覚しようがく寺領であった地を、粟屋弥八郎に与えた給地目録の中に、「玖珂郡通津郷長徳寺 九石足」(閥閲録)と出る。元禄八年(一六九五)の「寺社記」に「当寺往古ハ大寺之由候へ共、御当家御打入之砌令退転、住僧モ無之付テ、寺御解セ、岩国御普請用木ニ被仰付之由申伝候」とあり、同七年、以前の寺地に寺を再興し、寺領一〇石を寄付、岩国永興ようこう寺の末寺とした。

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]川西町伊勢平治

伊勢平治いせへいじの集落の東に位置する。寺域は水口沢みなくちざわ村の飛地内に属し、「白川風土記」では同村の項に記される。曹洞宗、白雲山と号し、本尊千手観世音は宝亀元年(七七〇)大和国の僧延鎮の作、坂上田村麻呂が当地に安置したと伝える。京都清水寺の観音と同木同作と寺伝にあり、本尊を安置する観音堂は近郷に知られた霊場であった。いつの頃か花池はないけにあった真言宗竜沢山宝鏡ほうきよう庵が管理し、同庵はさらに曹洞宗竜沢山長徳寺となり、また白雲山長徳寺と替わった。天正七年(一五七九)中屋敷長福ちようふく寺六世存盛を開山としている。

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]弘前市西茂森町二丁目

西茂森にししげもり町禅林街三十三ヵ寺の一つ。長勝ちようしよう寺を主座とする上寺のなかにある。蘭庭らんてい院と清安せいあん寺の間に位置。八重山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。もと隣松りんしよう寺末寺。

長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)によれば、創立年代は不詳だが、初め高杉たかすぎ村にあり、開山は真顛寿泉、開基は不詳。曹洞諸寺院縁起志(宗徳寺蔵)によれば、享禄年間(一五二八―三二)の創立、慶長年間(一五九六―一六一五)弘前へ移ったとある。開基は高杉村の豪族高杉杢左衛門と伝え、現在地に移転した時は、藤田半左衛門が建立、開山は関翁泉也とも伝える。

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]爾志郡乙部町字元町

乙部八幡神社に隣接する曹洞宗寺院。山号永寿山、本尊釈迦如来。元和五年(一六一九)松前藩士の下国金左衛門が亡父の冥福のために開いたと伝える(寺院沿革誌)。寺伝では下国金左衛門とは下国季昭をさし、下ノ国守護下国師季の次男直季の流れの下国庶家末裔という。前身は茂草もぐさ(現松前町)の長徳庵で、元和五年に松前城下寿養じゆよう寺二世真覚が願出て字岡山おかやま八幡はちまん山の麓に移転。延享二年(一七四五)長徳寺と号し、明和二年(一七六五)近隣の現在地に移った(「長徳寺掟書」寺蔵)。なお宝暦一一年(一七六一)の「御巡見使応答申合書」によれば、草創年は不詳だが、一七世紀末頃には豊部内とよべない(現江差町)に移され、長徳庵と称していた。

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]紫波町彦部 暮坪

彦部ひこべの北部、丘陵山麓に位置。近城山と号し曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝によれば、大巻おおまきの葛原義敬は無底禅師のために、当地の黒石くろいし山に仏堂を創建して近城きんじよう軒と名付けた。無底は江刺郡黒石村(現水沢市)に転住したため、無住となり荒廃していたが、義敬の子孫伯耆が、文亀二年(一五〇二)加賀国の恵全が諸国行脚の途中赤川あかがわ館へ投宿したのを機に再興したという(「長徳寺開基之記」など)

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]三重県御浜町上野

宝珠山と号し、曹洞宗。本尊阿弥陀如来。熊野五ヵ寺の一。有馬ありま(現三重県熊野市)安楽あんらく寺の末寺であった。境内は東西三〇間・南北二五間。文明(一四六九―八七)の頃周防国竜文りゆうもん(現山口県徳山市)四世大菴の開山。古くは大乗寺と称し、尾呂志氏は代々高六〇石を寄進したという。天正(一五七三―九二)の頃尾呂志孫次郎(伝兵衛)が現在地に移し長徳寺と改めた。新宮(現和歌山県新宮市)を領した堀内氏は改めて高二〇石を寄進した。

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]栗東町林

浄土真宗本願寺派。楞厳山と号し、本尊阿弥陀如来。元禄五年下寺開基帳によれば、永正一六年(一五一九)草創、開基正玄。慶長一六年(一六一一)二月に木仏を許され(木仏之留)、文化七年に自庵申替を許されている(天保下寺帳)。寺号については、「慶長十六年辛亥年日次ノ記」(「慶長日記」西本願寺蔵)には「長得寺宗慶」が門徒二人とともに仏照ぶつしよう(現大阪市北区)下の江州衆として頭人を勤めており、その時の注記に「此寺号当春御免之由也」とあり、木仏と同時に許されたと思われる。

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]三郷村大字明盛 一日市場

一日市場ひといちばの下町の西側に位置する。真言宗、高野山竜光りゆうこう院末。山号二木ふたつぎ山。当寺の所蔵する本尊聖観音菩薩像は鎌倉時代の制作。末寺に宮城みやしろ(現穂高町)高山こうざん寺がある。当寺の南一町にあたる地点、旧千国道と伝えられる道沿いに十王堂がある。この付近が旧大門にあたる。

長徳寺
ちようとくじ

[現在地名]恵那市長島町久須見

久須見本郷の永田くすみほんごうのながた川沿い、北面する山地の麓にある。巨福山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。開山は千旦林せんだんばやし(現中津川市)大林だいりん寺三世の徳外玄隆で、初め久須見くすみの村人が現在地に草庵を建て、徳外を招いた。三世祖山天秀のとき草庵を新築。寛保二年(一七四二)失火により堂宇一切を焼失。宝暦年中(一七五一―六四)までかかって現在の堂舎を建立したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android