長束正家(読み)なつかまさいえ

精選版 日本国語大辞典 「長束正家」の意味・読み・例文・類語

なつか‐まさいえ【長束正家】

安土桃山時代の武将。尾張国の人。丹羽長秀、次いで豊臣秀吉に仕え、五奉行一人として財政を分担した。また、文祿・慶長の役の際には補充輸送にあたった。近江滋賀県)水口城主となったが、秀吉没後、石田三成と組み、関ケ原合戦に敗れて自刃。慶長五年(一六〇〇)没。

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デジタル大辞泉 「長束正家」の意味・読み・例文・類語

なつか‐まさいえ〔‐まさいへ〕【長束正家】

[?~1600]安土桃山時代の武将。丹羽長秀、のち、豊臣秀吉に仕え、財政をつかさどった。五奉行の一人。秀吉の没後、関ヶ原の戦いに敗れて自殺。

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朝日日本歴史人物事典 「長束正家」の解説

長束正家

没年:慶長5.9.30(1600.11.5)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。通称は新三(または新三郎),大蔵大輔。近江国(滋賀県)の出身で,初め丹羽長秀に仕え,行政・財務の才能を認められて漸次重用された。天正13(1585)年4月の長秀死去後は長秀の嗣子長重を補佐していたが,やがて秀吉に召し抱えられ行政吏僚として活躍。同15年の九州征討や同18年の小田原攻めでは兵糧や人馬の輸送のことを主監し,近江・越前その他で太閤検地奉行を務め,豊臣家の蔵入や知行方の管理などを任務とした。文禄1(1592)年には肥前名護屋城,同3年には伏見城の工事を分担。同4年6月近江水口城主5万石,次いで12万石に加増され,従四位下侍従に叙任。慶長3(1598)年7月五奉行の一員に列せられる。また正家は奉行のほかに右筆をも務めていた。同5年の関ケ原の戦では西軍(石田三成方)に属し,6月に徳川家康が会津遠征に出発するとまもなく水口城を出て大坂城に入り,次いで安国寺恵瓊と共に伊勢に出陣して阿濃津城攻めに加わった。9月15日の決戦では南宮山に陣し,三成の敗北を聞くと水口城に逃れた。しかし東軍池田長吉に攻められ,9月30日,城を開いて自害。その首は10月1日京都三条河原にさらされた。墓所は近江安乗寺にある。<参考文献>『長束系譜』

(二木謙一)

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改訂新版 世界大百科事典 「長束正家」の意味・わかりやすい解説

長束正家 (なづかまさいえ)
生没年:?-1600(慶長5)

豊臣家五奉行の一人。新三郎,大蔵少輔と称した。出身は尾張国中島郡長束村。近江国栗太郡長束村ともいう。初め丹羽長秀に仕官,1585年(天正13)秀吉に仕えて従五位下大蔵少輔に叙任。89年に翌年の小田原征伐の糧食を準備し,91年に増田長盛らと近江を検地した。92年(文禄1)肥前名護屋城,94年伏見城の工事を分担,翌年に増田長盛の跡で近江水口城主として5万石を領し,後に12万石に加増された。98年(慶長3)越前を検地。計理に長じ財務を担当した。関ヶ原の戦に西軍にくみして近江桜井谷で自殺。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長束正家」の意味・わかりやすい解説

長束正家
なつかまさいえ
(?―1600)

安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣(とよとみ)氏五奉行(ぶぎょう)の1人。通称新三郎。初め丹羽長秀(にわながひで)・長重(ながしげ)に仕えたが、1585年(天正13)に豊臣秀吉にみいだされ、その家臣となり、奉行衆に加えられ従(じゅ)五位下大蔵大輔(おおくらたいふ)に叙任された。計算が巧みで財務に長じていたことから、もっぱら算用方を担当した。90年の小田原攻めでは糧食の準備を担当し、翌年には増田長盛(ましたながもり)らと近江(おうみ)国(滋賀県)の検地を担当。さらにその翌年には肥前名護屋(なごや)城の工事を一部担当するなど多彩な活躍をしている。95年(文禄4)には近江水口(みなくち)で4万石を与えられたが、のち12万石に加増され従四位侍従に叙任されている。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに敗れ、所領に戻ったが近江日野(ひの)で自殺した。

[佐々悦久]

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百科事典マイペディア 「長束正家」の意味・わかりやすい解説

長束正家【なつかまさいえ】

豊臣家五奉行の一人。初め丹羽長秀に仕官。理財の才能を見込まれて秀吉に仕え,戦時の兵糧調達に手腕を発揮,のち検地奉行となる。1595年近江水口(みなくち)城主となり5万石(のち12万石)を領す。関ヶ原の戦で西軍に与して敗れ自刃。
→関連項目増田長盛

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長束正家」の意味・わかりやすい解説

長束正家
なつかまさいえ

[生]?
[没]慶長5(1600).9.30. 近江,日野
安土桃山時代の大名。初め丹羽長秀に仕えたが,理財に長じているところから天正 13 (1585) 年に豊臣秀吉に召しかかえられた。同 17年の小田原征伐に際し兵站を担当。以後各地の検地奉行をつとめ,伏見城や肥前名護屋城などの工事を分担。文禄4 (95) 年近江水口5万石の城主となり,のち 12万石に加増。官位も大蔵少輔から従四位下侍従に進んだ。秀吉五奉行の一人となり財政を担当した。秀吉の没後,関ヶ原の戦いでは石田三成軍に属し,池田輝政に攻められて自決。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長束正家」の解説

長束正家
なつかまさいえ

?~1600.9.30

織豊期の武将。豊臣氏五奉行の1人。1585年(天正13)から豊臣秀吉に仕えた。財政能力にすぐれ,小田原攻めの兵糧奉行をはじめ,文禄・慶長の役でも兵糧の確保・輸送に手腕を発揮,近江・越前両国の検地奉行も勤めた。95年(文禄4)近江国水口城主となり,のち従四位下侍従に叙任され12万石。98年(慶長3)頃五奉行の1人となり,関ケ原の戦で西軍に属し戦死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長束正家」の解説

長束正家 なつか-まさいえ

?-1600 織豊時代の武将。
はじめ丹羽長秀(にわ-ながひで),のち豊臣秀吉につかえ,文禄4年近江(おうみ)(滋賀県)水口(みなくち)城主。5万石,のち12万石。豊臣家五奉行のひとり。理財にあかるく,茶人としても知られる。関ケ原の戦いに敗れ,慶長5年9月30日自刃(じじん)した。通称は新三,新三郎。号は友阿弥。姓は「ながつか」ともよむ。

長束正家 ながつか-まさいえ

なつか-まさいえ

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旺文社日本史事典 三訂版 「長束正家」の解説

長束正家
なつかまさいえ

?〜1600
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
近江(滋賀県)の人。財政にすぐれ,検地奉行として太閤検地に活躍。1595年近江水口城主となった。豊臣秀吉の死後,石田三成らと豊臣政権の存続をはかり,関ケ原の戦い(1600)で西軍に参加,敗れて自決した。

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世界大百科事典(旧版)内の長束正家の言及

【五奉行】より

…1598年(慶長3)7月ごろ豊臣秀吉の死を前にして設置された。前田玄以浅野長政増田(ました)長盛石田三成長束(なづか)正家の五名で構成される。豊臣氏の奉行は政権の樹立以来存在し,初期の奉行には桑原貞也,杉原家次,細井方成,石田三也(成),増田長盛,大谷吉継,伊藤秀盛など多くの人名を挙げることができる。…

※「長束正家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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