長禄・寛正の飢饉(読み)ちょうろくかんしょうのききん

百科事典マイペディア 「長禄・寛正の飢饉」の意味・わかりやすい解説

長禄・寛正の飢饉【ちょうろくかんしょうのききん】

1459年(長禄3年)から1461年(寛正2年)まで続いた全国的な飢饉。1459年の春・秋の旱魃(かんばつ),および畿内(きない)への台風襲来などによって,この年から翌年にかけて畿内周辺から西日本一帯で飢饉が発生。その後の引き続く天災に加え,各地での兵乱も原因となり,全国的な飢饉となった。京都では流民の餓死者が続出し,1461年1月から2月の餓死者は8万2000人と伝えられる。室町幕府による公的救済は行われず,当時の将軍足利義政が飢饉をよそに御所造営などの奢侈(しゃし)にふけっていたことは有名。→寛喜の大飢饉寛正の大飢饉

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長禄・寛正の飢饉」の解説

長禄・寛正の飢饉
ちょうろく・かんしょうのききん

15世紀半ばに日本各地でおきた大規模な飢饉。1459~60年(長禄3~寛正元)の2年に及ぶ異常気象と蝗(いなご)の発生などによって,61年1月から食糧不足が顕著となり,毎日数百人に及ぶ餓死者と,没落して地方から上京して「非人乞食」とよばれた人々で京都は充満したという。時宗の勧進僧願阿弥が幕府の命をうけ,六角堂前で2月末まで流民や病人の収容小屋を建てて施行(せぎょう)を行ったが,その間にも餓死者は京都だけで8万2000人を上回ったといわれる。京中では屍臭がひどく,死者の追善供養死体処理のため四条・五条河原では施餓鬼会(せがきえ)が幕府の命をうけた五山僧の手で行われた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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