長谷部九兵衛(読み)はせべ・きゅうべえ

朝日日本歴史人物事典 「長谷部九兵衛」の解説

長谷部九兵衛

没年:宝永6.9.29(1709.10.31)
生年:生年不詳
江戸前期の塩田開発者。義信の長男。名は義秀。長谷部家は代々松山藩領伊予国野間郡波方村(愛媛県越智郡波方町)の浦役人で,九兵衛は明暦2(1656)年から在役32年。延宝9(1681)年波方村沖の箱崎湾に塩田開発を計画して藩に請願,郡代官園田藤太夫の指揮のもと藩営工事として塩田築造がすすめられ,天和3(1683)年に波止浜塩田33軒が竣工した。当時塩田築造技術は秘法になっていたため,対岸安芸竹原塩田(竹原市)にわたり,苦心のすえ技術を会得して帰ったと伝えられている。このことは明治初年に編纂された『松山叢談』に記されているが,秘法云々は,おそらく後世に作られた話であろう。<参考文献>波止浜興産株式会社編『波止浜塩業史』

(渡辺則文)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷部九兵衛」の解説

長谷部九兵衛 はせべ-きゅうべえ

?-1709 江戸時代前期の製塩家。
伊予(いよ)波方(はがた)村(愛媛県波方(なみかた)町)の庄屋。安芸(あき)(広島県)竹原塩田で塩田づくりの技術をさぐる。天和(てんな)3年波方村波止浜(はしはま)(今治(いまばり)市)で塩田開発をはじめ,入浜(いりはま)式塩田を完成させた。宝永6年9月29日死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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