間部詮勝(読み)まなべあきかつ

精選版 日本国語大辞典 「間部詮勝」の意味・読み・例文・類語

まなべ‐あきかつ【間部詮勝】

江戸末期の大名越前鯖江藩主。下総守と称した。大坂城代京都所司代・西ノ丸老中となるが水野忠邦と合わず引退日米修好通商条約調印などの幕府難局にあたり、大老井伊直弼の下で再び老中となる。のち、井伊と対立して免職。文化元~明治一七年(一八〇四‐八四

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デジタル大辞泉 「間部詮勝」の意味・読み・例文・類語

まなべ‐あきかつ【間部詮勝】

[1802~1884]江戸後期の大名。越前鯖江さばえ藩主。大老井伊直弼なおすけに起用され、老中となり、日米修好通商条約締結将軍継嗣問題に当たった。のち井伊と対立して罷免された。

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改訂新版 世界大百科事典 「間部詮勝」の意味・わかりやすい解説

間部詮勝 (まなべあきかつ)
生没年:1802-84(享和2-明治17)

幕末の老中。越前鯖江藩主。1814年(文化11)藩主となり下総守と称した。寺社奉行,大坂城代を経て,38年(天保9)京都所司代,40年西丸老中となり,43年辞職。日米修好通商条約調印直後の58年(安政5)6月,罷免された堀田正睦,松平忠固に代わって大老井伊直弼に老中に登用された。条約調印の事情を上奏するために,9月京へ上って長野主膳と連絡をとり,京都所司代酒井忠義を指揮して尊王攘夷派の公卿の家臣や諸藩の志士の逮捕を行った(安政の大獄)。この弾圧を背景に,10月徳川家茂の将軍宣下の勅を得,12月には幕府がやむをえず条約に調印した事情は了解するという内容の勅書を受けることができた。一応,目的を達した詮勝は59年3月江戸へ帰ったが,この間に直弼と意見の食い違いが生じたことが原因で,12月に老中を辞した。62年(文久2)在任中の追罰を受けて領地1万石を召し上げられ,隠居急度慎を命ぜられたが,65年(慶応1)謹慎は解かれた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「間部詮勝」の意味・わかりやすい解説

間部詮勝
まなべあきかつ
(1804―1884)

幕末の老中、第7代越前国鯖江(さばえ)藩主。第5代藩主間部詮煕(まなべあきひろ)の三男。間部氏。通称は下総守(しもうさのかみ)。1814年(文化11)藩主となる。以後、奏者番、大坂城代、京都所司代に進み侍従に任じられた。1840年(天保11)西丸老中となったが、1843年老中首座水野忠邦との意見不一致により解任された。1858年(安政5)大老井伊直弼(いいなおすけ)の下で老中となり、日米修好通商条約調印の事情説明の上使として上洛、京都で安政の大獄の弾圧の指揮をとり、調印のやむをえざる事情は認めるとの勅書を得て、翌年3月江戸へ戻る。その後、直弼と不和となり12月に免職。尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が盛んとなった1862年(文久2)11月、在職中に不都合の処置をなしたとの理由で隠居、急度慎(きっとつつしみ)を命ぜられた。1865年(慶応元)謹慎を解かれ剃髪(ていはつ)して松堂と号した。

[小野正雄]

『間部家文書刊行会編『間部家文書4』(1986・鯖江市役所)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「間部詮勝」の意味・わかりやすい解説

間部詮勝
まなべあきかつ

[生]享和2(1802).2.19. 江戸
[没]1884.11.28. 東京
江戸時代後期の幕府老中。越前鯖江藩主。下総守。詮煕の子。通称,鉞之進。致仕後松堂と号した。文化1 (1804) 年 12月詮充の養子となり,同 11年鯖江藩5万石を襲封。同9年奏者番,天保2 (31) 年寺社奉行加役,同7年大坂城代,同9年京都所司代,同 11年老中に任じられたが,同僚の水野忠邦と合わず引退。安政5 (58) 年再び井伊直弼によって登用され,老中として勝手掛,外国掛をつとめ,安政の大獄の指揮をとった。老中辞職後,在職中の行動につき追罰を受けて致仕,謹慎を命じられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「間部詮勝」の解説

間部詮勝 まなべ-あきかつ

1804-1884 江戸時代後期の大名。
文化元年2月19日生まれ。間部詮煕(あきひろ)の3男。兄詮允(あきさね)の養子となり,文化11年越前(えちぜん)(福井県)鯖江(さばえ)藩主間部家7代。寺社奉行,大坂城代,京都所司代をへて,天保(てんぽう)11年老中となり,14年辞任。安政5年老中に再任され,通商条約に勅許をえるため朝廷工作をおこない,尊攘(そんじょう)派を弾圧。6年大老井伊直弼(なおすけ)と対立して老中を辞任。明治17年11月28日死去。81歳。初名は詮良。字(あざな)は慈郷。通称は鉞之進。号は松堂。下総守(しもうさのかみ)。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「間部詮勝」の解説

間部詮勝
まなべあきかつ

1804.2.19~84.11.28

幕末期の老中。越前国鯖江藩主。父は5代詮熙(あきひろ)。下総守。1814年(文化11)遺領相続。26年(文政9)の奏者番就任以来,寺社奉行・大坂城代・京都所司代を勤め,40年(天保11)西丸老中。43年辞任。58年(安政5)井伊直弼(なおすけ)の大老就任直後,老中就任。勝手掛兼外国掛。同年日米修好通商条約調印の事情説明のため上洛し,尊攘派を弾圧(安政の大獄)。翌年老中辞任。62年(文久2)隠居・謹慎。維新直後,新政府から2カ月の謹慎を命じられた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「間部詮勝」の解説

間部詮勝
まなべあきかつ

1802〜84
幕末の政治家で,越前(福井県)鯖江 (さばえ) 藩主
1814年襲封。大坂城代・京都所司代を歴任し,'40〜'43年老中。'58年井伊直弼 (なおすけ) の大老就任後老中に再任され,将軍継嗣問題・条約勅許問題などに奔走。安政の大獄で尊攘派を弾圧し梅田雲浜 (うんぴん) らを逮捕した。'62年,老中在職中の追罰をうけ減封され,謹慎を命じられた。

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