関谷清景(読み)せきやせいけい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「関谷清景」の意味・わかりやすい解説

関谷清景
せきやせいけい
(1854―1896)

日本最初の地震学者。岐阜・大垣の生まれ。1870年(明治3)大垣藩から大学南校入学、開成学校工学科に進み、1876年機械学研究のためロンドン留学、翌年肺病となり帰国。1878年東京大学理学部機械工学科助教となり、ユーイングもと地震実験所において観測を行う。ユーイングの帰国後ミルンとともに日本全国の地震観測網を整備し、震度階原型微震弱震強震および烈震の名称をつくる。1886年東京帝国大学の地震学教授となる。1887~1888年ころつくった地震動模型は有名である。1888年磐梯(ばんだい)山大爆発直後、菊池安(きくちやすし)(1862―1894)とともに現地調査を行い、その報告書は力作である。翌1889年の熊本地震直後地震計を持って出張したが病気再発のため入院した。1892年震災予防調査会が創設され、その委員となったが、1894年病気再発し、明治29年死去した。

[松澤武雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「関谷清景」の意味・わかりやすい解説

関谷清景 (せきやせいけい)
生没年:1854-96(安政1-明治29)

日本最初の地震学者。美濃大垣藩士の子として生まれる。1870年(明治3)藩の選を受け大学南校に入学,74年卒業。76年よりイギリスに留学,肺患により77年帰国,81年東京大学理学部助教となる。86年世界最初の地震学専任教授となった。この間J.ミルンJ.A.ユーイングを助けて日本地震学会を育て,地震観測網を整備するなど日本の地震学の発展に努めた。85年世界ではじめての地震予知に関する本格的論文《地震を前知する法如何》を発表する。88年磐梯山爆発調査に参加。89年熊本地震の調査に病をおしておもむく。濃尾地震(1891)の翌年新設の震災予防調査会委員となり日本地震史の編集中,神戸市で病没した。
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朝日日本歴史人物事典 「関谷清景」の解説

関谷清景

没年:明治29.1.8(1896)
生年:安政1.12.11(1855.1.28)
明治時代の地震学者。大垣藩士関谷玄助の長子。美濃国(岐阜県)大垣生まれ。明治3(1870)年藩の貢進生として大学南校に入学,9年英国に留学するが肺患のため翌年帰国,その後東大理学部のユーイングのもとで地震学を学び,18年に地震学教授となる。地震観測網の整備に努め,25年設立された震災予防調査会では中心メンバーとして活躍が期待されたが,療養生活のかいもなく神戸で死去。論文に「簡単地震計」(『東洋学芸雑誌』3巻)<参考文献>橋本万平「関谷清景博士を追って」(『蟻塔』11巻)

(谷本勉)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関谷清景」の解説

関谷清景 せきや-きよかげ

1856*-1896 明治時代の地震学者。
安政2年12月11日生まれ。明治9年イギリス留学,19年帝国大学教授。地震計の改良,地震観測網の整備,磐梯(ばんだい)山の噴火調査などにつとめた。論文に「地震を前知する法如何(いかん)」がある。明治29年1月9日死去。42歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。東京開成学校卒。幼名は鉉太郎。

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百科事典マイペディア 「関谷清景」の意味・わかりやすい解説

関谷清景【せきやせいけい】

日本の地震学の開拓者の一人。大垣藩士の子。大学南校で機械工学を修め,英国に留学。帰国後,当時来日中のユーイング,ミルンとともに地震学を研究。1886年東大教授。磐梯山の爆発(1888年),熊本の地震(1889年)などを調査。今日の震度階のもととなったものを創案。

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