関野克(読み)せきのまさる

日本大百科全書(ニッポニカ) 「関野克」の意味・わかりやすい解説

関野克
せきのまさる
(1909―2001)

建築史家。最初期の日本・東洋建築史研究者関野貞(ただし)の子として、東京に生まれる。1933年(昭和8)東京帝国大学工学部建築学科卒業。同大学院に進み、37年に足立康(こう)(1898―1941)、福山敏男(1905―95)、太田博太郎らとともに「建築史研究会」を結成。関野は会の基本的性格であった文献実証主義に立脚して日本住宅史の研究に力を注ぎ、「正倉院文書」にもとづく奈良時代の藤原豊成(とよなり)殿の復元は、とりわけ画期的な成果として知られる。42年には最初の住宅通史『日本住宅小史』を上梓。原始時代から同時代のモダニズム住宅までの流れを整理した。38年に大学院博士課程を満期退学し、40年に助教授に就任。42年からは新設された第二工学部に移り、46年(昭和21)に教授となった。

 47年から弥生時代後期の遺跡である登呂(とろ)遺跡の発掘が始まると遺構と出土木材をもとに、上屋(うわや)(建築の地上部分)の復元を担当。高床倉庫銅鐸埴輪(はにわ)を手がかりとし、竪穴(たてあな)住居については、平面形態が一致する江戸時代の高殿(たかどの)(砂鉄精錬小屋)を模して、形態を決定した。完成した復元住居の姿は、教科書や各種出版物で流布し、原始住居の一般的なイメージを形作った。登呂遺跡の経験を踏まえた「登呂遺跡と建築史の反省」(『建築雑誌』735号所収・1947・日本建築学会)では、従来の様式中心の建築史のありかたを批判し、技術史研究の必要性を主張した。また「様式史は建築の墓場となるだらう」と述べ、論議を呼んだ。

 49年東京大学第二工学部の生産技術研究所への改組にともない、「建築・土木」の講座を担当(69年定年退官)。日本の木工技術の研究に着手する。また、幕末洋館や工場建築の実測調査を組織的に行ない、日本近代建築の実証的研究に先鞭をつけた。同時期に「明治・大正・昭和の建築」を『世界美術全集Vol. 25』(1951・平凡社)に執筆。これは幕末から第二次世界大戦終結までを扱った最初の建築通史であり、短い分量ながらバランスのよい見取り図を示した。

 50年に公布された文化財保護法により、文化財保護委員会が設立されると、同委員会建造物課の初代課長を併任。以後、文化財保存行政に大きな貢献を果たした。52年には東京国立文化財研究所に保存科学部を新設して部長を兼任し、65~78年同研究所の所長を務めた。この間、保存修復の伝統技術のうえに自然科学的手法を導入。姫路城をはじめとした大型建造物の解体修理、醍醐寺五重塔板絵保存など数多くの事業を指揮して、保存修復体制の近代化を進めた。また、保存技術の紹介、国連教育科学文化機関(ユネスコ)など国際機関との連携、研究会の開催など、文化財に関する国際的交流の中心人物としても活躍した。

 他方65年に開村した博物館明治村の創設にも助力し、初代館長谷口吉郎(よしろう)の後任として、78~91年(平成3)館長を務めた。1937年と73年に日本建築学会賞、89年ガゾラ賞受賞。79年勲二等瑞宝章受章、90年文化功労者。

[倉方俊輔]

『『日本住宅小史』(1942・相模書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関野克」の解説

関野克 せきの-まさる

1909-2001 昭和-平成時代の建築史家。
明治42年2月14日生まれ。昭和21年母校東京帝大の教授となる。のち東京国立文化財研究所所長,明治村館長などをつとめる。法隆寺,鎌倉大仏など文化財の保存修復に科学的な技法を確立した。平成元年文化財保護のノーベル賞といわれるガゾラ賞受賞。2年文化功労者。平成13年1月25日死去。91歳。東京出身。著作に「日本住宅小史」「文化財と建築史」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android