阿仁鉱山(読み)あにこうざん

日本歴史地名大系 「阿仁鉱山」の解説

阿仁鉱山
あにこうざん

阿仁金・銀・銅山の総称。北流する阿仁川上流の両岸、標高五六二メートルの九両きゆうりよう山の南・北・西麓、および標高七一〇メートルの芝森しばもり南・西麓一帯に分布する。板木沢いたきざわむかい七十枚しちじゆうまい小沢おざわ萱草かやくさまた真木沢まぎさわ三枚さんまいいちまた大沢おおさわ天狗平てんぐだいら黒滝くろたき糠内ぬかない深沢ふかざわの各鉱山を含む。

〔銀山〕

阿仁川左岸の湯口内ゆくちない銀山の開坑が最も古く、天正三年(一五七五)の発見と伝える。「梅津政景日記」慶長一九年(一六一四)には「幾口内」「いくちない銀山」などとみえる。文政年間(一八一八―三〇)の秋田領内諸金山箇所年数帳(鉱山紀年録)に「向銀山往古湯口内銀山と云、金鉱あり 大阿仁湯口内村 右は慶長元和之頃大盛致候、御遷方以前之山と申唱候」とあり、佐竹氏入部以前から開坑していたことはほぼ間違いない。まず銀山が開け、慶長一九年頃から金山を主とし、寛永(一六二四―四四)以降再び銀山となって寛文(一六六一―七三)に及んだと推定される。

板木沢銀山は慶長―元和(一五九六―一六二四)の頃、湯口内より産銀が多かったといわれ、「秋田風土記」にも「木立沢山 イタ木沢と云。此山金銀銅鉱共に出つ。真木山の内なり」とある。慶長一九年から七十枚・三枚三両さんまいさんりようの両金山が隆盛をきわめたが、寛永頃から板木沢・湯口内が注目を集め再び銀山主体となり、同八年、湯口内から三六五匁、慶安四年(一六五一)三貫三二〇匁をそれぞれ運上したという。

〔金山〕

慶長一九年七月、水無みずなしの山先五郎左衛門・七兵衛・太郎兵衛が七十枚山を見立て、ここに阿仁金山の開坑が始まる(梅津政景日記)。これを親間歩として三枚三両山を開坑。銀山町の建設にとりかかり、当時板木沢・湯口内などから金子持ちの山師が集中、家族を合わせ人口一万前後を数えたという。当時の山奉行は片岡八左衛門・町田小左衛門・若林掃部の三人(同書)

慶長一九年から幕府運上が始まり、元和二年(一六一六)六七枚、同三年三〇枚、同四年二八枚を計上する(梅津政景日記)。しかし寛永二年、前山が金五枚の運上山となっただけで衰退を始め、寛永中期頃から銀山と代わった。

〔銅山〕

銅山は小沢山の開発に始まり、宝永五年(一七〇八)の小沢銅山古来言伝之事録(東京大学図書館蔵)に、

<資料は省略されています>

とみえる。享保一〇年(一七二五)の秋田郡阿仁銀山之次第開書(秋田金山旧記)には、

<資料は省略されています>

とあり、小沢銅山は寛文一〇年頃から北国屋の手代八右衛門の経営になった。金掘大工・掘子は紀州熊野銅山から移住して吹立てを開始し、藩は運上銀取立てにより収益をはかった。

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改訂新版 世界大百科事典 「阿仁鉱山」の意味・わかりやすい解説

阿仁鉱山 (あにこうざん)

秋田県北秋田市の旧阿仁町にある金・銀・銅鉱山の総称。板木沢,向,七十枚,小沢,萱草,二ノ又,真木沢,三枚,一ノ又,大沢,天狗平その他の鉱山よりなっており,阿仁十一ヵ山とも阿仁六ヵ山とも呼ばれる。鉱床は第三紀中新世の堆積岩,火成岩中の数十条の鉱脈からなっている。

1575年(天正3)湯口内に銀山が発見され,つづいて,1614年(慶長19)山先(やまさき)(惣山中の長)が七十枚山で金鉱を発見して,鉱山として急速に発展した。17世紀半ばに至って,金・銀山は衰退に向かったが,代わって,そのころから小沢山を中心に,有力な銅鉱脈があいついで発見され,以後銅山として稼行されることとなった。阿仁銅山秋田銅山とも称され,18世紀初めには,2万0060個(2万0060ピクル=200万6000斤=32万0960貫匁=120万3600kg)の荒銅を生産したと記録されている。しかし,その後銅産額も低迷を続け,18世紀半ばには100万斤前後,幕末には70万斤前後にまで減少した。

 17世紀の阿仁鉱山は山師の請負経営であったが,1670年ころから銅山も大坂商人北国屋高岡善右衛門が経営していた。これにたいし,秋田藩は,96年(元禄9)いったん直営として失敗,請負経営にもどしたが,1702年から直営とすることに成功した。64年(明和1)幕府は阿仁銅山とその周囲1万石を銅山領として幕領にしようとする阿仁銅山上知令を出したが,藩の抵抗にあって撤回した。つづいて藩は,翌65年から鉱山改革に着手,これまでの藩営に領内の山師の請負を結びつけた準藩営形式をとることとしたが,それによっても鉱山の根本的回復はできなかった。維新後,秋田県営となり,1875年に官営に移管され,ドイツ人メツゲルAdolph Mezgerらの外人技師を中心に,鉱業・冶金技術の改善が進められた。85年に,古河市兵衛に払い下げられ,つづいて技術改善と経営合理化が進められ,新しい金・銅鉱脈の発見もあって,一時活況をとりもどしたが,1931年に休山。33年金・銅山として再開したが,第2次大戦後は休山,再開をくりかえした。細脈が多い鉱山で,主としてシュリンケージ採掘法により採掘され,盛期には銅品位1.01%の鉱石1万2000t/月の生産(1967)を行っていたが,79年閉山した。

 17世紀については不明だが,18世紀初頭には,小沢山で2500人の労務者がおり,1791年(寛政3)には小沢山はじめ六ヵ山の人口4877,1874年には小沢山の戸数278,人口1771を含めた六ヵ山で746の戸数,4902の人口を擁していた。

 安永(1772-81)以前は,阿仁銅山の荒銅は大坂に送られ,銅吹職仲間で精錬され,竿銅に仕立てられて,長崎輸出銅などに向けられていたが,1774年からは,籠山(秋田県能代市の旧二ッ井町)に設けられた藩営銀絞所で精錬されることとなった。この銀絞所は,阿仁銅山の銅と太良鉛山の鉛とを原料に,南蛮絞法による冶金で銀と銅とを生産,その産銀量は1812年(文化9)には35貫匁(1万3125kg)に達した。この銀絞所の経営も,明治に入って,阿仁銅山と同じ経緯をたどったが,1904年,東雲精錬所(秋田県能代市)の新設に伴って廃止された。
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百科事典マイペディア 「阿仁鉱山」の意味・わかりやすい解説

阿仁鉱山【あにこうざん】

出羽国秋田郡,現秋田県北秋田郡阿仁町(現・北秋田市)の阿仁川上流部にあった,金山・銀山・銅山の総称。1575年発見と伝える湯口内(ゆくちない)銀山の開鉱が最も早く,次いで1614年山先(やまさき)の五郎左衛門らにより七十枚(しちじゅうまい)金山が見立てられた。湯口内・七十枚・板木沢(いたきざわ)などは慶長期(1596年−1615年)には金山,寛永(1624年−1644年)中頃からは銀山として稼行し,17世紀半ばからは衰退に向かった。これに代わって小沢山(こさわやま)などで銅の鉱脈が発見され,以後は銅山(阿仁銅山・秋田銅山)を中心として稼行された。当初は山師の請負であったが,1670年には大坂の町人北国屋善右衛門の経営となり,1696年には秋田藩の直営となった。だが経営の失敗から翌年には請山に戻り,1702年再度藩営となった。1764年には阿仁銅山周辺1万石の幕府領への上知が命じられたが,藩の反対によって撤回された。18世紀初頭には年間約200万斤以上を産出,小沢山に約2500人の労働者がいたのを頂点に,以後産額は減少し,幕末には約70万斤に落ち込んでいる。この間阿仁川沿いには銀山町が形成され,1774年には籠山(かごやま)(現秋田県能代市)に藩営の銀絞所(ぎんしぼりじょ)が建設されている。明治維新後は秋田県営に移行し,1875年には官営となって採鉱・冶金技術の改善が図られた後,1885年に古河市兵衛(ふるかわいちべえ)に払い下げられた。1931年一時休山となり,1933年金山・銅山として採掘が再開された。第2次世界大戦後も休山と再開が繰り返され,昭和40年代半ばに閉山となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「阿仁鉱山」の解説

阿仁鉱山
あにこうざん

秋田県北秋田市にある金・銀・銅鉱山の総称。別子(べっし)・尾去沢(おさりざわ)とともに近世の御用三銅山の一つ。1575年(天正3)湯口内(ゆくちない)銀山が開坑,ついで1614年(慶長19)七十枚(しちじゅうまい)金山が開坑して金山が主体となる。寛永期以降は再び銀山が主体となった。70年(寛文10)小沢銅山の開坑をはじめ,次々と銅山が開かれ,阿仁十一カ山と称された。1708年(宝永5)の産銅高360万斤は近世銅山では最大。18世紀以降,秋田藩が直営するが,産銅の減少が長崎貿易不振の原因となり,幕府が上知を計画したこともある。1875年(明治8)官営となり,85年古河市兵衛に払い下げられた。第2次大戦後は休山・再開をくり返し,1978年(昭和53)閉山。

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