阿曇比羅夫(読み)アズミノヒラフ

デジタル大辞泉 「阿曇比羅夫」の意味・読み・例文・類語

あずみ‐の‐ひらふ〔あづみ‐〕【阿曇比羅夫】

飛鳥時代武将。滅亡直前の百済くだら救援に赴き活躍したが、白村江はくすきのえ水軍に敗れた。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「阿曇比羅夫」の意味・わかりやすい解説

阿曇比羅夫 (あずみのひらふ)

7世紀中期,対朝鮮半島の行動に活躍した水軍の将。生没年不詳。阿曇山背比羅夫とも称す。642年(皇極1),舒明天皇の死を弔する百済使節とともに帰国弔使応対に当たっているから,舒明朝,すでに百済に使していたことがわかる。661年(斉明7),唐将軍蘇定方が水陸より高句麗に南下すると,前将軍として後将軍阿倍比羅夫らとともに百済救援に派遣され,翌年には,日本滞在中の百済の人質の王子豊璋を百済に送還王位につける役目を果たす。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿曇比羅夫」の意味・わかりやすい解説

阿曇比羅夫
あずみのひらふ

生没年不詳。7世紀の中期に対朝鮮半島関係に活躍した外交官、将軍。阿(安)曇山背連(やましろのむらじ)比良夫ともいう。山背に本貫があったのだろう。舒明(じょめい)天皇の末年に百済(くだら)への使節となり、舒明天皇の崩御を聞いて百済からの弔使を伴って帰朝、その応接にあたり、また百済の国情を報告した。また百済義慈王の王子翹岐(ぎょうぎ)らが王に放逐されて来朝したとき、その家に預かっている。661年(斉明天皇7)に百済が唐と新羅(しらぎ)の連合軍に攻められ危急に陥ったとき、救援軍の前将軍に任ぜられ、後将軍阿倍引田(ひけた)比羅夫らとともに軍を率いて渡韓することになり、662年百済王子豊璋(ほうしょう)を170艘(そう)の軍船を率いて送って行き王位につかせた。その効なく、翌年白村江(はくすきのえ)に日本は大敗し、百済は滅んだ。

[横田健一]

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朝日日本歴史人物事典 「阿曇比羅夫」の解説

阿曇比羅夫

生年:生没年不詳
7世紀中ごろの官人。阿曇氏が海部の伴造氏族であることから,外交と外征に活躍した。阿曇山背比良夫とも記す。大仁の冠位で百済国使を務めていたが,皇極1(642)年舒明天皇の死去に対して派遣された百済の弔使を伴い帰国し,百済の国情の乱れを報告した。このときに追放された百済王子翹岐は彼の家で安全に保護された。斉明7(661)年百済救援の前将軍に任じられた。翌天智1(662)年外征軍の大将軍として船170隻を率いて出征し,百済王子余豊璋を本国に送還して即位させた。のち大錦中の冠位を授けられた。

(今泉隆雄)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿曇比羅夫」の解説

阿曇比羅夫 あずみの-ひらふ

?-? 飛鳥(あすか)時代の武人。
百済(くだら)(朝鮮)に使節としていき,舒明天皇の死去の際,弔使をともなって帰国。斉明天皇7年(661)阿倍比羅夫らとともに百済救援におもむく。翌年日本滞在中の百済の王子余豊璋(よ-ほうしょう)を送還した。別名に阿曇山背比良夫。

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