院覚(読み)いんかく

改訂新版 世界大百科事典 「院覚」の意味・わかりやすい解説

院覚 (いんかく)

平安後期の院派仏師生没年不詳。院助の子または弟子。知られる最初の事跡は1114年(永久2),関白藤原忠実の丈六阿弥陀如来像の造立である。しかし,20年(保安1)忠実が失脚すると院覚も連座して院から追捕され,その後しばらく不遇な時代を過ごす。27年(大治2)に日野新堂の仏像修理から造仏界に復帰し,30年待賢門院発願の法金剛院の造仏によって法橋位を得,32年(長承1)には法眼となる。以後法金剛院や法成寺,白川殿などの仏像を造り,仏師としての不動の地位を確立する。院覚の作と推定される法金剛院の阿弥陀如来像は現存する唯一の例で,典型的な定朝様の作例といえる。
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朝日日本歴史人物事典 「院覚」の解説

院覚

生年:生没年不詳
平安後期の院派系仏師。院助の子または弟子と伝えられる。永久2(1114)年に関白藤原忠実発願の阿弥陀如来像の造立を担当したのをはじめ,保延2(1136)年ごろまでの事績が知られる。この間,保安1(1120)年の忠実失脚に連座した不遇の時期を経て,大治2(1127)年の日野新堂の仏像修理から造仏界に復帰した。同5年待賢門院が発願した京都・法金剛院の造仏の功で法橋となり,長承1(1132)年には法眼位まで上る。以後,法金剛院や法成寺,白川殿など宮廷関係の造仏を行い,仏師としての地位を確立する。現存する法金剛院の阿弥陀如来坐像は彼の作品とされ,定朝様の正系を受け継ぐ優美な作風を示す。<参考文献>小林剛『日本彫刻作家研究』,清水真澄「院政期における一仏師の生涯―仏師院覚をめぐって―」(京都国立博物館『院政期の仏像―定朝から運慶へ―』)

(浅井和春)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「院覚」の意味・わかりやすい解説

院覚
いんかく

生没年不詳。12世紀のなかばごろに活躍した院派の仏師。院助(いんじょ)の子または弟子ともいわれ、院派、すなわち七条大宮仏所の主宰者として、これを隆盛に導いた。京都法金剛院の阿弥陀如来(あみだにょらい)座像は、文献からみて、1130年(大治5)に彼がつくったものと推定される。現存する彼の作品はこれだけだが、当時の記録には彼の作が数多く記されている。また彼は平等院本堂の仏像を定朝(じょうちょう)の作と鑑定したり、京都鳥羽(とば)の勝光明院の造仏にあたって、西院邦恒堂の定朝作の像を仏像の模範であるとして、弟院朝とともに、その寸法を細かく測定するなど、定朝の作風にあこがれ、研究していたようである。法金剛院の像にも、そうした傾向がはっきりと表れている。

[佐藤昭夫]

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百科事典マイペディア 「院覚」の意味・わかりやすい解説

院覚【いんかく】

平安時代の木仏師。定朝の孫である院助(いんじょ)の子といわれる。12世紀前半,宮廷貴族による盛んな造仏に従って活躍し,法眼位に登った。定朝様を踏襲した作風であることが記録にある。京都法金剛院の阿弥陀如来像は1130年院覚作との推定もあるが,確かではない。
→関連項目院尊

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「院覚」の意味・わかりやすい解説

院覚
いんかく

平安時代後期の院派の仏師。院助の子あるいは弟子。七条大宮仏所を継ぎ,当時の宮廷の造仏にたずさわった。法眼位につく。彼の事績は『長秋記』に散見する。京都,法金剛院の『阿弥陀如来坐像』は,待賢門院が大治5 (1130) 年に西郷堂の本尊として院覚に造らせたものと推定される。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「院覚」の解説

院覚 いんかく

?-? 平安時代後期の仏師。
院助の子といわれる。関白藤原忠実発願(ほつがん)の阿弥陀如来像,待賢門院発願の法服地蔵像など,宮廷関係のものをおおく手がける。長承元年(1132)法成寺東西両塔の造仏で法眼となる。京都法金剛院に現存する阿弥陀如来像をその作とする説もある。

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