陽光院(読み)ようこういん

日本歴史地名大系 「陽光院」の解説

陽光院
ようこういん

[現在地名]弘前市西茂森町二丁目

西茂森にししげもり町禅林街三十三ヵ寺の一つ。長勝ちようしよう寺を主座とする上寺のなかにあり、隣松りんしよう寺と宝泉ほうせん院の間に位置。桜庭山と号し、曹洞宗本尊釈迦如来。もと隣松寺末寺。

長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)によれば、創立年代は不詳だが、初め桜庭さくらば村にあった観音堂を前身とし、開山は隣松寺三代喜山了悦とある。「津軽一統志」によれば、開基は桜庭太郎左衛門信正。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦において、大垣おおがき(現岐阜県大垣市)攻めで戦死した信正の嫡男左衛門次郎正次追善のため、領地桜庭村の喜山庵に寺領六石を寄進

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「陽光院」の解説

陽光院 ようこういん

1552-1586 戦国-織豊時代追尊天皇
正親町(おおぎまち)天皇の第1皇子。死後,子の後陽成(ごようぜい)天皇により太上天皇尊号を贈られ,陽光太上天皇,陽光院と称される。墓所月輪陵(つきのわのみささぎ)(京都市東山区)。⇒誠仁(さねひと)親王

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改訂新版 世界大百科事典 「陽光院」の意味・わかりやすい解説

陽光院 (ようこういん)

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世界大百科事典(旧版)内の陽光院の言及

【誠仁親王】より

…幼少より皇儲と定められ,1586年には受禅が内定したが,事の行われるのに先立ち病により没した。のち太上天皇を追贈され,院号にちなんで陽光太上天皇,陽光院という。なお織田信長の猶子となり,また本能寺の変には居所二条殿が襲撃されたが,危うく難を免れた。…

【上皇】より

…大宝令制定以後は,譲位した天皇は自動的に太上天皇と称され,持統より平城まで7人の上皇が出現したが,823年(弘仁14)嵯峨天皇が譲位に当たり太上天皇の尊号を辞退したため,淳和天皇が詔して尊号をたてまつり,以後これが常例となり,譲位後数日ないし十数日の間に新帝から尊号をたてまつる詔を発する儀制が成立し,嵯峨より江戸末期の光格まで,北朝の上皇を含めて53人の上皇が尊号をうけた。そのほか,皇位につかずして太上天皇の尊号をうけた例に,後堀河天皇の父守貞親王(後高倉院)と後花園天皇の父貞成親王(後崇光院)があり,没後に尊号を追贈された例に,後陽成天皇の父誠仁親王(陽光院)と光格天皇の父典仁親王(慶光天皇)がある。太上天皇の異称には,上記の略称のほか,〈おりゐのみかど〉〈もとのうへ〉〈むなしきふね〉などの和風のものもあり,みな譲位の意による称で,〈むなしきふね〉は中国に出典のある〈虚舟〉の和訓である。…

※「陽光院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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