青森(県)(読み)あおもり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「青森(県)」の意味・わかりやすい解説

青森(県)
あおもり

本州の北端にある県。北部では、下北半島(しもきたはんとう)と津軽半島が北に突き出て陸奥湾(むつわん)を抱き、特色ある形態を示している。津軽海峡を隔てて北海道と相対し、南は秋田、岩手の両県に接している。また、東は太平洋、西は日本海に面し、三方を海に囲まれており、海岸線は総延長680キロメートルに及ぶ。種々の面で海との関係が深い県といえる。気候的には温帯気候の北限をなしており、夏は短く冬が長い。生物の分布上でも限界を示すものが多く、植物ではアオモリトドマツ、コメツガなどが八甲田(はっこうだ)山を北限としている。また、夏泊(なつどまり)半島先端はツバキの自生北限地である。逆に寒地植物のヒメワタスゲ、カラフトイチヤクソウなどの南限地である。動物ではニホンザル成育地の北限が下北半島山地部にある。

 青森県は首都や大消費地に遠く、交通網や輸送施設の整備が遅れたため、商品の輸送に時間とコストがかかりすぎ、商品の販売や原料入手に不利であった。したがって、八戸(はちのへ)地区を除くと、工業化は遅れており、農業県としての性格が強い。農業においても気候的な制約が大きく、下北地方のように冷害頻度の高い地域や津軽地方の水田単作地帯では出稼ぎ者が多く、社会問題にもなっている。

 2020年(令和2)の人口は123万7984。2020年の自然動態は出生数6837、死亡者数1万7905で、自然増加数はマイナス1万1068であった。2020年の社会動態は転入数1万6967、転出数2万1573で、4606の転出超過であった。これは県内の労働市場の不足を示し、出稼ぎなどの形で転出しているのである。面積9645.64平方キロメートル。

 2020年10月時点で、10市8郡22町8村からなる。県庁所在地は青森市。

[横山 弘]

自然

地形

県の中央部を奥羽山脈が縦走し、これを境にして東西それぞれ異なった地形的特色を示している。東部は火山灰に厚く覆われた三本木原台地(さんぼんぎはらだいち)や海岸段丘が広く分布し、西部は津軽平野の広大な沖積低地と、秋田県境から岩木山麓(さんろく)にかけて広がる出羽山地(でわさんち)の延長が大部分を占めている。主として第三紀層からなる奥羽山脈が、夏泊半島や津軽半島の脊梁(せきりょう)部と下北半島の一部を形成し、奥羽山脈に重なる状態で火山帯が走り、八甲田山、恐山(おそれざん)などの火山を噴出させている。南西部には、出羽山地の延長が白神(しらかみ)山地となって秋田県との境をなしている。南部には十和田火山(とわだかざん)の噴出による大カルデラがあり、これに水をたたえた十和田湖がある。下北半島の恐山火山もその中央にカルデラ湖(宇曾利山(うそりやま)湖)をもっている。

 平野は津軽平野と青森平野以外にあまり大きいものはない。津軽平野は南北に長い盆地状の平野で、主として岩木川の本流や支流によって潤される標高20メートル以下の低平な平野である。青森平野は陸奥湾に面して半月状に開いており、八甲田山に源を発する荒川、駒込(こまごめ)川によって形成された沖積平野である。

 県内の自然景観を代表するものには次のものがある。秋田県境に位置する十和田湖と奥入瀬(おいらせ)渓流、八甲田山を中心とする十和田八幡平(はちまんたい)国立公園、蕪島(かぶしま)、種差海岸(たねさしかいがん)、階上岳(はしかみだけ)などからなる三陸復興国立公園(2013年指定)、特異な風景を展開する恐山や、大間崎、佐井の願掛岩(鍵掛岩)(がんかけいわ)から仏ヶ浦(ほとけがうら)、鯛島(たいじま)などの海岸景観からなる下北半島国定公園、七里長浜などの海岸線、岩木山、十二湖などを主とする津軽国定公園。また県立自然公園として、浅虫(あさむし)夏泊、芦野(あしの)池沼群、岩木高原、黒石温泉郷、名久井岳(なくいだけ)、大鰐碇ヶ関(おおわにいかりがせき)温泉郷、赤石渓流暗門の滝の七つがある。

 また秋田県境の白神山地はブナの原生林地域で、1990年に林野庁ではブナ林の保護のため「森林生態系保護地域」として白神山地を選定した。またユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で採択(1974)の「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」に基づき自然遺産リストに登録(1993)されていて、この地域は木材生産を目的とした伐採がまったくできない「聖域」となった。

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気候

温帯気候の北限にあり、短い夏と寒くて長い冬が特徴的である。奥羽山脈を境にして東側は太平洋岸式気候で、夏季に冷たい偏東風(やませ)が吹き付け、稲作にしばしば冷害を与える。冬は積雪が少なく、晴天の日が多いが、寒さは厳しい。西側は日本海式気候で、夏季に偏東風の影響が少なく、梅雨現象も顕著ではない。冬季は季節風が強く積雪も多く、曇天の日が続く。ウィンタースポーツも東側のスケートに対して西側のスキーと、対照的である。北部の下北、津軽両半島の地域は、冷夏厳冬の傾向が著しい。

[横山 弘]

歴史

先史・古代

青森県の先土器時代の遺跡は岩木山麓(さんろく)の弘前(ひろさき)市大森勝山遺跡をはじめとして、数多く発見され、1万年前にすでにヒトが生活していたと思われる。ところが、1992年(平成4)に青森市の三内丸山遺跡が発見され、発掘調査の結果、この遺跡は縄文時代前期から中期にかけて約1500年以上営まれた日本最大の縄文集落と判明、大型掘立て柱建物跡、日本最古の漆器、日本最大の板状土偶などの貴重な発見が相次ぎ、その場所に県営野球場を建設する予定であったがこれを中止し、遺跡の保存を決定した。そのほか縄文文化の遺跡はつがる市木造(きづくり)亀ヶ岡を筆頭として、全県下にわたっている。八戸市是川(これかわ)には縄文前期から晩期にわたる遺跡がそっくり残っている。弥生(やよい)文化は1世紀ごろ、後退しつつあった縄文文化のなかに入ってきた。南津軽郡の田舎館(いなかだて)、垂柳(たれやなぎ)両遺跡出土の土器に籾(もみ)の圧痕(あっこん)が認められ、焼き米も出土している。歴史時代に入って、この辺境の地に中央勢力が浸透し始めるのは7世紀中ごろで、津刈の蝦夷(えみし)が記録にみえる最初は655年(斉明天皇1)で、『日本書紀』に記されている。また、658年に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が秋田、能代(のしろ)の蝦夷を討ち、能代、津軽の郡領(こおりのみやつこ)を定めたとあり、北陸、出羽と進攻してきた中央勢力が津軽に及んだことを示している。以後、平安初期は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷(せいい)大将軍として軍事行政を兼ねて東北経営にあたった。その後開拓もしだいに進み、安倍、清原、藤原氏ら地方豪族の台頭をみるに至った。

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中世

鎌倉時代には幕府の全国支配のもとに、東の糠部(ぬかのぶ)には南部氏が入り、西の津軽には曾我氏(そがうじ)が地頭代として入った。南部師行(もろゆき)は八戸根城(ねじょう)に根拠を置き(八戸南部氏)、子孫は長くこの地を支配し、江戸時代に岩手県遠野(とおの)に移封されるまで続いた。一方、室町末期には一族の三戸南部氏(さんのへなんぶし)が興り、のち盛岡に移り南部宗家を称した。津軽地方は1219年(承久1)曾我広忠が平賀郡岩楯(いわだて)(平川(ひらかわ)市平賀町)の地頭代職に任ぜられて以来、南北朝のころまでこの子孫が勢力を有した。その後、津軽の十三湊(とさみなと)(五所川原(ごしょがわら)市)を根拠地に安東氏が勢力を伸ばしたが、長い抗争のすえ、南部氏が安東氏を駆逐して津軽全域を支配した。さらに15世紀末ごろ大浦氏(後の津軽氏)が台頭し、16世紀末には大浦為信(津軽為信)(初代弘前藩主)が津軽地方から南部氏の勢力を駆逐して津軽統一を達成、それ以後、藩政時代を通じて東の南部と西の津軽に二分された。

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近世

津軽の統一を果たした為信は、南部との境を苅場沢(かりばさわ)(東津軽郡平内町)とし、秋田の佐竹氏とは比内と西海岸とを交換、領内では津軽平野北部の新田開発を進めた。2代信牧(のぶひら)(信枚)が意志を継いで弘前城を築城し、城下町を成立させた。藩政も中期になると、領国経営に重点が置かれ、殖産興業がその中心となった。4代藩主信政は岩木川下流地帯に新田開発を進め、五所川原(ごしょがわら)、木造、金木(かなぎ)、俵元(たわらもと)の各新田を開発した。それに付随して岩木川の治水、屏風山(びょうぶやま)の植林、貞享(じょうきょう)検地(1684)などが行われた。八戸根城にあった南部22代直義(なおよし)(直栄)は1627年(寛永4)宗家盛岡南部氏の要請により、岩手の遠野に国替となり、津軽領以東はすべて盛岡南部氏の支配となり、八戸には郡代が置かれた。1664年(寛文4)に南部直房が南部10万石のうち2万石を与えられ八戸藩主となり、盛岡南部領と八戸南部領に区別された。八戸城は1601年(慶長6)に築城され、城下町は1620年代に建設された。江戸時代における津軽、南部の凶作は偏東風による冷害であった。ほとんど隔年ごとに不作となる南部地方に比べると、津軽地方は4年に1回で、かなり楽ではあったが、一度大凶作になるとかえってみじめであった。津軽の新田開発に対して、南部では三本木原の開拓があげられる。1855年(安政2)新渡戸伝(にとべつとう)(稲造の祖父)は奥入瀬川の水をトンネルで三本木原に導き開田を計画した。これは明治、大正、昭和と引き継がれ、1966年(昭和41)に終わっている。

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近・現代

1871年(明治4)の廃藩置県で従来の藩はそのまま県となり、さらに七戸、八戸、斗南(となみ)、黒石、館(たて)(北海道松前)の5県が弘前県に合併された。同年に県庁が弘前から青森に移され、青森県と改められた。ついで東北諸県の再編が行われて、青森県の区域は陸奥国一円および松前とされた。その後、松前は1872年開拓使に移管された。また二戸郡は藩政時代からの歴史的因縁から、地域民の青森県からの離脱運動が絶えなかったため、1876年岩手県に移管された。以上のような経過をたどって現在の県域が定まった。県都としての青森が中央にあり、南部と津軽の対立的気分を一新する役割を果たした。北海道の開拓が進むと、中央と北海道を結ぶ連絡地点として、青森県は重要な役割を果たすことになった。1873年開拓使により、青森―函館(はこだて)間に定期航路が開始され、1891年に日本鉄道東北線上野―青森間が全通、ついで1894年に奥羽線青森―弘前間が開通して、青森は交通的機能を増した。さらに1988年(昭和63)には青函トンネル(せいかんとんねる)が開通し、北海道と鉄道で結ばれた。2002年(平成14)には東北新幹線が八戸まで、2010年に青森まで通じ、東京―新青森駅間の所要時間が最速の列車で3時間10分となった。

 南部地方は藩政時代に馬の牧畜経営に力を入れ、維新後も重要産業として残った。軍馬、馬車用馬の需要に応じて牧馬が盛んになり、元会津藩士の広沢安任(やすとう)の上北郡谷地頭(やちがしら)村(現、三沢市)での洋式牧場経営はその代表的なものであった。津軽地方も綿、絹、漆器工業や農牧業に力を注ぎ、南部の馬に対して津軽ではリンゴ栽培を取り入れた。1875年内務省から苗木が配られ、積極的に栽培が始まった。その後栽培方法の向上、販路の拡大により年々生産高を増し、全国一の生産地となった。津軽の米とリンゴ、南部の馬と畑作、さらに三面海に囲まれての漁業や、藩政時代から育成保護されてきた下北、津軽両半島のヒバ林は青森県の経済的基盤となってきた。第一次産業に主体を置く青森県は昭和初期の金融恐慌の影響を大きく受けた。工業も低開発県であるが、1964年(昭和39)に八戸市が新産業都市に指定され、新工業港の建設により三菱(みつびし)製紙などの大工場が進出し、県の工業の一大拠点となっている。また「むつ小川原開発計画」で漁業権、公害などの問題を抱えつつ、下北、上北両郡は大きく変わろうとしている。

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産業

産業別就業者の比率をみると、第一次産業14.0%、第二次産業21.4%、第三次産業64.6%(2005)で、年々第一次産業就業者率が低下し、第二次、第三次産業就業者率が高くなっているが、全国の比率と比べると、第一次産業就業者率はまだ高い割合を占めている(全国の第一次産業就業者率は4.8%、第二次産業26.1%、第三次産業69.1%)。それに対して第二次、第三次産業就業者率は全国の比率と比べて、低いことがわかる。第一次産業のなかで農業就業者が全就業人口の12.3%を占め、農業県としての性格を示している。工業は八戸市を中心として近代的工業が発展しているが、他の都市では食料品工業や伝統的工業がわずかにみられるにすぎない。

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農林業

耕地面積は15万7200ヘクタール(2009)で、耕地別内訳は水田約8.4万ヘクタール、普通畑3.4万ヘクタール、樹園地2.4万ヘクタール、牧草地1.5万ヘクタールである。水田は水田利用再編対策の実施により減少した。水田面積は耕地面積の半分以上を占めており、とくに津軽平野に卓越している。それに比較して東部地方は従来畑作が中心であったが、第二次世界大戦後、開田が進められた。この地方は県内でもっとも冷害を受けやすいところで、豊凶の差が大きく、以前はヒエを中心とした畑作の中心地域であった。しかし、近年は野菜栽培が中心となり、とくにナガイモニンニクなどの栽培が盛んで、全国一の生産地となっている。果樹ではリンゴが主体で、栽培面積は約2.1万ヘクタール(2011)。生産量は約45万トン(2010)で全国の58%を占める。栽培面積は弘前市を中心とする中南農業地域を最大とし、2011年には県の栽培面積の67%を占めた。近年は消費者の高級品志向の影響で栽培品種も変化し、デリシャス系を経てふじ、つがるなどが主流になっている。リンゴはコメとともに青森県の経済的支柱であり、その豊凶は県の経済に重大な影響を与える。黒石市には日本で唯一県立のリンゴ試験場があり、生産性の向上、品種改良などの指導を行っている。リンゴ栽培の作業は2~3月ごろ剪定(せんてい)が始められ、5月以降人工受粉、摘果、袋かけが行われて、8月には早生(わせ)種「祝(いわい)」が収穫され、10~11月に紅玉(こうぎょく)、デリシャス系、陸奥(むつ)、ふじ、国光(こっこう)などの順に収穫される。

 森林面積は県面積の64%(61万5000ヘクタール)で、その61%が国有林である(2010)。主要樹種はスギ、アカマツ、ヒバ、ブナである。民有林は38%でスギ、アカマツを主とする造林を推進している。津軽半島のヒバ林は弘前藩時代以来の造成になり、日本三大美林の一つに数えられている。畜産は、古来から馬産地として知られ、戦前は軍馬の産地として重要であったが、現在では競走馬の育成を中心にかつての姿をとどめているにすぎない。また肉用牛、乳用牛による酪農に力が入れられ、ブタやニワトリの飼育も盛んになった。

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水産業

三方を海に囲まれた全国有数の水産県で、八戸を基地とする三陸沖の漁場などをもっている。かつては沿岸零細漁業と出稼ぎ漁夫を基盤としていたが、現在では沖合、遠洋漁業への転換促進と陸奥湾を中心とする浅海養殖に力を入れている。沖合、遠洋漁業のうち、とくに北洋のサケ・マス漁業は1964年(昭和39)ごろから本格的となったが、同時に三陸沖のサバ、サンマ漁業も活発となった。おもな漁港は八戸、大畑、大間(おおま)、青森、鰺ヶ沢(あじがさわ)、深浦(ふかうら)など83がある。陸奥湾ではホタテ貝の養殖が盛んである。

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鉱業

かつての主要鉱産物は砂鉄をはじめとして、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄、マンガン、石灰石など多種にわたっていた。開発は大正初期から中期にかけて安倍城(あべしろ)(硫化鉄)、大正(たいしょう)・西又(にしまた)鉱山(銅、錫(すず)など)が活発に稼動、昭和になって上北(かみきた)(銅)、尾太(おっぷ)(銅、亜鉛)、大揚(おおあげ)鉱山(硫化鉱)などで盛況をみたが、1973年(昭和48)のオイル・ショックを契機とする全国的な経済不況の影響で鉱山の経営が困難となった。青森県でも次々と休山を余儀なくされ、2008年時点で、尻屋崎(しりやざき)付近と八戸付近の石灰石を採掘する鉱山が稼動するにすぎない。近年、恐山周辺に金鉱床が発見され、温泉沈殿物の金鉱床としては最高品位といわれている(1989年度の県調査では原石1トン当り最大6500グラム)。

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工業

工業業種構成を1990年(平成2)の工業出荷額でみると、食料品工業29.3%、電気機器14.0%、鉄鋼8.8%、木材8.2%、金属3.3%となっている。工業の地域別分布をみると、事業所の構成比は、青森市、津軽地域、八戸市を含む南部地域、下北地域の順となっているが、出荷額については南部地域が全体の60%以上を占め、八戸市を中心とする地域が本県工業の中心といえる。

 1969年(昭和44)に「新全国総合開発計画」が打ち出され、それに基づいて、青森県東部の六ヶ所村鷹架(たかほこ)沼および尾駮(おぶち)沼周辺から三沢市北部に至る臨海部の約5280ヘクタールを工業開発地区とした。工業配置は自然の地形を利用して、台地には石油精製所を、太平洋岸の低地には石油化学、火力発電を配置し、また輸送需要に対応するため、鷹架沼および尾駮沼を中心とする地区にむつ小川原港を建設することとなった。1979年、むつ小川原地区に石油国家備蓄基地の立地が決定し(1985年完成)、これを契機に企業の誘致を積極的に進めている。また、六ヶ所村に使用済み核燃料再処理工場(年間処理能力800トン)の建設が進められ、最終試運転が行われている。また高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターが1995年4月から操業を開始し、再処理委託先のフランスから返還された高レベル放射性廃棄物のガラス固化体28本が搬入され、30~50年間の一時貯蔵が始まった。東通村では東北電力の原発1号機(沸騰水型軽水炉、出力110万キロワット)が2005年12月に営業運転を開始した。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震により運転停止中。

 津軽、南部両藩主の保護奨励で実を結んだ地方工芸のうち、現代までその伝統を守り続けてきたものに津軽こぎん刺し、南部菱刺し(なんぶひしざし)、津軽塗(以上、国の伝統的工芸品に指定)などがある。津軽こぎんは藩政時代の比較的早い時期に始まったものらしい。麻布に木綿糸で幾何学的模様を刺していく独特のもので、野良(のら)着のほか祭り用の晴れ着、嫁入り用の持ち物などにも刺しゅうしたという。現在では財布、ネクタイなどの小物を製品化している。菱刺しは南部地方の刺し方でこぎんに類似する。弘前市を中心に産出される津軽塗は、津軽藩4代藩主信政の保護と奨励によって始まったもの。木地は津軽特産のヒバを用い、各種の彩漆(いろうるし)を使用して複雑な斑文(はんもん)を描き出すのを特色とし、現在では盆、硯(すずり)箱、座卓、箸(はし)などの製品がある。

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交通

JR線には東北新幹線(東京―新青森間)、奥羽本線、八戸線、大湊(おおみなと)線、津軽線、北海道新幹線(海峡線)、五能(ごのう)線がある。なお、東北新幹線の開業までは青森県東部を東北本線が走っていたが、2002年(平成14)の同新幹線盛岡―八戸間延伸に伴い、並行する区間は第三セクターに移行し(目時(めとき)―八戸間は青い森鉄道、盛岡―目時間はIGRいわて銀河鉄道)、さらに2010年同新幹線が新青森まで全通した際に東北本線の八戸―青森間も青い森鉄道に移管された。私鉄線には弘南(こうなん)鉄道、津軽鉄道がある。青森と北海道函館を結ぶ青函連絡船(せいかんれんらくせん)は1908年(明治41)以来約80年間、本州と北海道の動脈的役割を果たしてきたが、1988年(昭和63)3月、青函トンネルを経由するJR海峡線(青森―函館間)の開業によってその役目を終えた。トンネル内には吉岡海底駅と竜飛(たっぴ)海底駅が設けられたが、これは列車火災に備えた緊急避難基地に使うもので、世界初めての海底駅である(2014年3月廃止)。自動車交通の発達とともに道路の整備も進み、東北自動車道、八戸自動車道、青森自動車道、津軽自動車道のほか国道4号、7号、45号の動脈路線がある。海上運輸の拠点は青森、八戸の2港で、青森は貿易港として、八戸は全国有数の水揚高を誇る大漁港および工業港として、それぞれ重要な役割を担っている。近年航空交通の発達により航空需要が増大しているが、新青森空港の整備工事が進められ、1987年の第1期工事完成に伴いジェット化空港として一部の使用が始まり、2005年(平成17)には3000メートル滑走路の供用が開始され、大型機の離着陸が可能となった。

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社会・文化

青森県は本州の最北端にあり、気候的条件も厳しいため、歴史的には開発が他の地域に比べて非常に遅れた。したがって、明治以降も一般に後進地域と考えられてきたが、その後、交通機関やマスコミの発達、教育の普及などにより、県民意識の近代化、生活水準の向上がみられるようになった。県内の太平洋側にある南部地方と、日本海側の津軽地方は風土的条件の違いが生活風習の相違を生んでいる。南部地方は畑作を主とするのに対して、津軽地方は稲作を主とし、農民の祭りにも津軽の「獅子舞(ししまい)」と南部八戸の「えんぶり」との違いがはっきりしている。このような生活や伝統の違いが対立意識を生み、心の底に潜在している。青森の県民性について、南部人は気質が明るく、素直で、建設的であるが、津軽人はしつこく、協調性に乏しいといわれる。しかし、この津軽評はよい面からいうと気骨があり、容易に節を曲げない意地があるということになる。津軽地方からは政界や経済界で名をあげた人こそ少ないが、多くの芸術家が生まれている。

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教育・文化

弘前(津軽)藩に藩校稽古館(けいこかん)が設けられたのは1796年(寛政8)で、約300人の学生を集めた。その後縮小はしたが、幕末には医学館も創設された。支藩の黒石藩には天保(てんぽう)年間(1830~1844)に朱子学系統の経学教授所が置かれた。一方、八戸藩には1829年(文政12)文武講武所がつくられ明治初年まで続いた。1872年(明治5)稽古館の校舎を利用して菊池九郎らにより東奥義塾(とうおうぎじゅく)が開校した。菊池は慶応義塾の出身であり、福沢諭吉の実学精神とキリスト教精神を基本とする学校であった。菊池九郎はまた青森県における自由民権運動の中心人物の一人で、政治結社「共同会」を結成、国会開設に力を尽くし、また県内各地に政治結社を生む原動力となった。

 2013年(平成25)時点で、高等教育機関には国立の弘前大学(人文、教育、理工、医、農学生命科学の5学部)があって県教育の中心をなすほか、青森公立大学(1993年開学)、県立保健大学(1999年開学)が設立された。私立には青森大学、八戸学院大学、八戸工業大学、東北女子大学、弘前学院大学、青森中央学院大学、弘前医療福祉大学の7大学と北里大学獣医学部、短大6校(公立1・私立5)、国立八戸工業高等専門学校がある。また青森市浅虫に東北大学大学院生命科学研究科附属海洋生物学教育研究センター、青森市荒川(酸ヶ湯(すかゆ))に東北大学植物園八甲田山分園がある。

 県内で最初に発刊された新聞は、1877年(明治10)に発刊の『北斗新聞』であるが、翌年廃刊、1879年同じ発行人により『青森新聞』が刊行されたが、この新聞も経営難により、菊池九郎らに引き継がれ、1890年に『東奥日報』の創刊となった。現在も県内で広く購読されている(2007年4月発行部数約25万6000)。津軽を中心に購読圏をもつ『陸奥新報』は1946年(昭和21)発刊(同5万4000)。このほか南部中心の『デーリー東北』がある(同10万7000)。また放送機関には日本放送協会(NHK)、青森放送(RAB)、青森テレビ(ATV)、エフエム青森、青森朝日放送(ABA)があり、NHKは青森、弘前、八戸の3市に放送局をもち、地域に密着した県域放送をしている。青森放送はラジオとテレビ兼営の民間放送で、県内にラジオ5局、テレビ55局の中継局をもっている。青森テレビは県内52の中継局をもち(2006)、県内全域をエリアとするUHFを使った民間放送局である。

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生活文化

自然環境が厳しく、藩政時代から昭和初期まで農村の生活や生産様式はあまり変わりばえのしないものであったが、第二次世界大戦後、水稲栽培の技術の向上や農業の機械化によって大きく変化した。かつて10アール当り収穫量は240キログラムであったが、戦後の農地改革に続く品種改良と農薬の普及によって10アール当り収穫量もしだいに高まり、全国並みか、ときにはそれを追い越すほどになり、1979年(昭和54)には全国第1位となった。県内の米どころは津軽であるが、南部の畑作地帯にも米作が急速に浸透していった。津軽ではさらにリンゴ栽培の進歩によって経済的向上を示したが、それとともに県外出稼ぎも多くなった。すなわち、機械化された農作業により能率化し、手順が年内に仕上がるため、農作業が終わると出稼ぎに行くのである。かつては旧正月になって、農業が一段落し、正月をゆっくり楽しんだが、現在は町方と同様に新正月で年を迎えるようになった。

 2月17日から3日間、八戸市を中心に行われる「えんぶり」(国の重要無形民俗文化財)は春の初めにその年の豊作を祈る祭りである。南部の「えんぶり」に対して津軽を代表する民俗芸能に「獅子舞」(県無形民俗文化財)がある。主として8月15日を中心に踊るもので、虫送りの行事などにも加わる。旧暦7月の行事、青森市の歌舞伎人形ねぶた(かぶきにんぎょうねぶた)、弘前市の扇灯籠ねぷた(おうぎどうろうねぷた)の行事はともに国の重要無形民俗文化財。弘前ねぷたは18世紀の初めごろにはすでに行われていたようである。元来は灯籠や人形を川に流すことが主の行事であった。ねぶたはねむた、すなわち睡魔のことで、労働の妨げとなる眠気を払う意味があるとされ、農作業との結び付きが強かったが、現在では東北三大祭りの一つとして観光的色彩が濃い。津軽の農村では村中の田植が終わると、さなぶり休みがある。その休みに虫送りという行事が行われる。田畑の害虫に苦しんだ農民がこれを防除するために、集団で神に祈願したことから始まり、等身大の藁(わら)人形と5~6メートルもある蛇体をつくり、その頭部に木彫りの竜面をつける。行列をつくって村中を練り歩き、村境に人形を立て、その近くの松の枝などに蛇体をかける。これが害虫が外から入るのを防ぐまじないである。旧暦8月1日(前後の3日間)、五穀豊作を祈願して津軽各地から集団で行う岩木山の登拝行事(お山参詣(さんけい))、下北半島(むつ市、下北郡、上北郡)の下北の能舞は、ともに国の重要無形民俗文化財である。南部の各地でみられる駒踊(こまおどり)(県無形民俗文化財)はかつての馬産地にふさわしい民俗芸能である。山伏神楽(かぐら)系統の田子(たっこ)神楽(田子町)、社家によって守られてきた津軽神楽(弘前市)など県内のあちこちに神楽舞が伝えられている。7月末から8月初めに行われる八戸三社大祭の山車(だし)行事(国指定重要無形民俗文化財)は、2016年に「山・鉾(ほこ)・屋台行事」(33件のうちの1件)として、ユネスコの無形文化遺産に登録された。

 文化財としては、国宝に八戸市櫛引八幡宮(くしびきはちまんぐう)の赤糸威鎧兜(おどしよろいかぶと)と白糸威鎧褄取(つまとり)兜、八戸市風張1遺跡(かざはりいちいせき)出土の(合掌)土偶の3点がある。国の重要文化財には、弘前城の天守など、最勝院五重塔、岩木山神社拝殿、津軽為信霊屋(ためのぶたまや)、旧第五十九銀行本店本館などの建造物、亀ヶ岡遺跡・是川遺跡出土品などがあるが、1992年(平成4)に青森市三内丸山遺跡が発見されて日本最大の縄文集落として注目されるようになった。そのほかの文化財は津軽、南部の両藩が内政確立を図ったころからのものがほとんどである。国の史跡に、三内丸山遺跡(特別史跡)、弘前城跡、根城跡、浪岡城跡、亀ヶ岡石器時代遺跡、是川石器時代遺跡、大森勝山遺跡、長七谷地貝塚(ちょうしちやちかいづか)などがある。

[横山 弘]

 2021年(令和3)、三内丸山遺跡など青森県にある八つの遺跡が、ユネスコにより「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部 2022年1月21日]

伝説

巨人伝説は全国的に分布していて、関東、中部地方ではダイダラボッチ、九州では大人(おおひと)弥五郎とよばれているが、青森県ではオオヒトといい、岩木山、八甲田山(はっこうださん)、梵珠山(ぼんじゅさん)などに隠れ住むと信じ、恐れられた。そのオオヒトから派生したのが鬼(おに)神社の社伝である。巌鬼山(がんきさん)のオオヒトは名を弥十郎といい、九州の大人弥五郎にかかわりがあるといわれている。貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)では安寿・厨子王(あんじゅずしおう)の伝説が岩木山信仰に結び付き、姉弟を酷使した山椒(さんしょう)太夫が丹後(たんご)の人であるため、その国の人が来るのを岩木山の神が嫌って、お山が荒れるという。流離譚ではさらに義経伝説(よしつねでんせつ)や烏頭安方(うとうやすかた)、長慶(ちょうけい)天皇などが知られている。義経は高館(たかだて)で自刃したといわれているが、伝説では逃れて陸奥(みちのく)を流亡し、三廏(みんまや)から蝦夷(えぞ)地へ渡ったと伝えている。外ヶ浜に流された大納言(だいなごん)烏頭安方父子の霊がウトウという鳥になったという。この伝説に取材したのが世阿弥(ぜあみ)の謡曲『善知鳥(うとう)』である。

 津軽では死者の魂は恐山(おそれざん)へ行くと信じられている。死者の魂が霊場に行くという伝説は各地にあるが、恐山は地蔵伝説に支えられていて死者の魂に再会できるという。南津軽郡藤崎町には北条時頼(ときより)の愛妾唐糸(あいしょうからいと)の伝説があり、時頼が愛妾の在所を訪ねると、唐糸は身の衰えを恥じて入水(じゅすい)したという悲話を伝えている。

[武田静澄]

『宮崎道生著『青森県の歴史』(1970・山川出版社)』『『新編青森県叢書』11冊(1974~1980)』『『青森県百科事典』(1981・東奥日報社)』『『青森県の地名』(1982・平凡社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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