じゅん‐てい【順帝】
[一]
中国、
後漢第八代の
皇帝(在位
一二六‐一四四)。安帝の子。姓は劉。名は保。安帝の
長子。永寧(
一二〇‐一二一)の初め太子となり、のち、廃されて済陽王となったが、安帝の崩後即位。
宦官を重用し、外戚梁氏に
国政を左右された。(
一一五‐一四四)
[二] 中国、元最後の皇帝(在位
一三三三‐七〇)。名は妥懽帖睦爾(
トガン=
ティムール)。
廟号は恵宗。順帝は明側の諡
(おくりな)。明宗の長子で、漢文化の
尊重に尽くし、遼・金・宋三史の
編纂をした。のち、明の
太祖朱元璋に都を陥され、応昌(熱河省西北部)で没した。(
一三二〇‐七〇)
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デジタル大辞泉
「順帝」の意味・読み・例文・類語
じゅん‐てい【順帝】
[115~144]中国、後漢の第8代皇帝。在位125~144。名は保。安帝の子。
[1320~1370]中国、元最後(第10代)の皇帝。在位1333~1370。名はトゴン=テムル。権臣バヤンらに政権を任せたため国内が乱れ、明の太祖に都を追われて病死した。
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順帝 (じゅんてい)
Shùn dì
生没年:1320-70
中国,元朝の第11代皇帝。本名トゴン・テムルToghon Temür。在位1333-70年。順帝は明朝による諡号(しごう)。その治世,元朝は権臣の政争や紅巾の徒の反乱などによって混乱したが,彼は事態を打開する能力と実権をもたず,ついに1368年に明軍によって首都の大都を奪われ,漢地を放棄してモンゴル高原に逃れざるをえなくなった。そしてまもなく病没した。モンゴル人はこの北走の悲劇を〈順帝悲歌〉という詩によって表現し語り伝えてきた。
執筆者:吉田 順一
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順帝
じゅんてい
(1320―1370)
中国、元(げん)朝最後の皇帝(在位1333~70)。名はトゴンテムル(妥懽帖木耳)。第8代明宗の長子。宮廷内の政争のため幼少から高麗(こうらい)(朝鮮)や広西などの辺境の地に移されていたが、14歳のとき広西から迎えられて帝位についた。漢文化に対する理解が深く、暗愚な皇帝ではなかったが、権臣のバヤン(伯顔)やトクト(脱脱)らが政権をほしいままにし、自らはチベット仏教(ラマ教)を狂信して逸楽にふけったため財政は破綻(はたん)し、国政は乱れた。そのうえ各地に天災、飢饉(ききん)が起こり、反元朝を唱える反乱が続発した。その一つ紅巾(こうきん)の乱のなかから出た朱元璋(しゅげんしょう)(明(みん)の太祖)の北伐軍に追われて上都(内モンゴル、ドロンノール北)に逃れ、応昌(おうしょう)で病死した。
[谷口規矩雄]
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順帝
じゅんてい
1320〜70
元朝最後の皇帝(在位1333〜70)
順帝は明の謚号 (しごう) 。北元では恵宗 (けいそう) ,モンゴル名はトゴン=ティムール=ハン。8代明宗の長子。元末期,王族政争が激化した中に朱元璋の明軍が大都(現在の北京)に迫り,上都 (じようと) に逃れたが,明軍に追われて,その東の応昌で病死した。子の昭宗が北元の皇帝となった。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
順帝(じゅんてい)
Shundi
1320~70(在位1333~70)
本名トゴン・テムル(Toghon Temür)。元朝最後の皇帝。1368年明軍に追われて大都を逃れ,応昌にいたがまもなく病死した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報