須磨(読み)すま

精選版 日本国語大辞典 「須磨」の意味・読み・例文・類語

すま【須磨】

[1]
[一] (摂津国の西南の隅(すま)(=すみ)にあるところから呼ばれた) 兵庫県神戸市西部、六甲山地が大阪湾にせまる地域。古くは関所が置かれ、また、源平の古戦場として知られる一ノ谷白砂青松の須磨の浦を含み、明石と並び称された月の名所。歌枕。
※万葉(8C後)三・四一三「須磨の海人(あま)の塩焼衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず」
[二] 神戸市の行政区の一つ。六甲山地が急斜面をつくり大阪湾に臨む地域を占める。住宅地として発展。昭和六年(一九三一)成立。
[三] 「源氏物語」第十二帖の巻名。源氏二六歳の三月から二七歳の三月まで。時勢が変わり、弘徽殿の大后がたの圧迫が強くなったので、源氏は須磨に退去を決意する。離京のさま、須磨での生活、三月上巳の海辺の祓に大暴風雨と津波に襲われたことなどが描かれる。
[2] 〘名〙 香木の名。分類は真南蛮(まなばん)。香味は酸苦。六十一種名香の一つ。

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デジタル大辞泉 「須磨」の意味・読み・例文・類語

すま【須磨】

神戸市西部の区名。また、その須磨区南部の地域。大阪湾に面する白砂青松の海岸で、古来、明石と並び称される景勝地須磨関跡・須磨浦公園などがある。[歌枕]
「わくらばに問ふ人あらば―の浦にもしほたれつつわぶとこたへよ」〈古今・雑下〉
源氏物語第12巻の巻名。光源氏、26歳から27歳。源氏の離京のようす、須磨での生活、暴風雨の襲来などを描く。
箏曲そうきょく八橋検校やつはしけんぎょう作曲の六歌からなる組歌。

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日本歴史地名大系 「須磨」の解説

須磨
すま

六甲ろつこう山地の南西端、山塊が海岸線に迫る地域。鉢伏はちぶせ山・鉄拐てつかい山南東麓に位置し、大阪湾を隔てて淡路島に対する。古く須麻・陬麻・須馬・須間・などとも表記。摂津国の南西隅、畿内の最西端にあたる交通・軍事上の要衝で、山陽道が播磨国へと通じ、律令制下では須磨駅や須磨関が置かれた。「万葉集」巻三に大網公人主が宴席で吟誦した歌として「須磨の海人の塩焼衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず」がみえ、巻一七には「須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも吾はするかも」とあるなど、海浜では古くから製塩が行われていた。「古今集」には「田村の御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける」と題した在原行平の歌「わくらばにとふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶとこたへよ」がみえる。行平を須磨に蟄居させるに至った文徳天皇時代の事件については正史にみえないが、行平には須磨関を詠んだ歌もある(続古今集)。また行平の弟業平は、蘆屋あしやの里に住む主人公(業平)を兄衛府督(行平)が訪ね、一緒に布引ぬのびきの滝(現中央区)見物に出かけるという設定で「伊勢物語」第八七段を創作しており、「古今集」「新古今集」には布引の滝で詠んだ兄弟の歌が収録されるなど、行平が一時期須磨付近に住んでいたとも考えられる。「源氏物語」須磨の巻は行平の故事に準拠してつくられたともいわれ、失脚した光源氏が蟄居した須磨の家は「行平の中納言の、藻潮たれつゝわびける家居近きわたり」とされている。畿内の果にある須磨は浦人が藻塩焼く鄙びた地で、流謫の地の印象の強いもの悲しい場所として多くの歌に詠まれ、歌枕ともなった。

平安末期、平氏一門が東方福原ふくはらを拠点とするようになってから当地も合戦に巻込まれていった。

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改訂新版 世界大百科事典 「須磨」の意味・わかりやすい解説

須磨 (すま)

兵庫県神戸市須磨区のうち大阪湾に面する一帯。背後に六甲山地の西端に当たる高取山,鉄拐(てつかい)山,鉢伏(はちぶせ)山をめぐらし,南西は明石海峡をへだてて淡路島に対する。海岸の須磨浦は白砂青松の景勝地として古来著名である。須磨はまた摂津国の西端,畿内の西の境界に当たり,播磨との交通・軍事上の要衝であった。大宰府と京を結ぶ古代の主要路であった山陽道が通り,律令制下では須磨駅や関が置かれた。1184年(元暦1)平家の大軍が範頼,義経の率いる源氏勢と一ノ谷で戦い,敗北を喫した(一ノ谷の戦)。敦盛塚などの史跡があり,現在は須磨浦公園となっている。明治期には結核療養所が開設され,大正期になると離宮や関西在住の富豪の別邸が建設された。現在の須磨離宮公園はその一つである。海岸には阪神間唯一の海水浴場をはじめヨットハーバー,海釣り公園などがあり,レクリエーション地区となっている。
執筆者:

古来,須磨をうたった歌は多いが,《古今集》巻十八には〈わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ〉という在原行平の歌がある。この歌を準拠としてつくられたともいわれる《源氏物語》須磨之巻には,政変で失脚した光源氏の須磨蟄居(ちつきよ)のようすが須磨の自然描写を織り込んで描かれている。謡曲《松風》は,行平に愛された2人の美女〈松風〉と〈村雨〉の霊が須磨の浦にあらわれて旅僧と物語りをするという筋。謡曲《須磨源氏》は《源氏物語》須磨之巻の直接の劇化である。《平家物語》に材を採った謡曲のうち,《箙(えびら)》《忠盛》《敦盛》はいずれも須磨を舞台とする。芭蕉も須磨を訪ね,その紀行文が《笈(おい)の小文》にある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「須磨」の意味・わかりやすい解説

須磨
すま

兵庫県神戸市西部の地区。須磨区の南部の地域で、旧須磨町。古来景勝の地として知られる。六甲(ろっこう)山地西端の鉢伏山(はちぶせやま)、鉄拐山(てっかいざん)、高倉山などは須磨浦公園あたりで急傾斜となって海に迫る。この「平地の行き詰まったスミ」が須磨の地名の由来である。白砂青松の須磨の浦は『源氏物語』の「須磨」「明石(あかし)」、謡曲『松風』などの舞台で、いまも海水浴場や海浜公園などがある。狭い海岸にJR山陽本線、山陽電鉄、国道2号がひしめきあって通じている。一方、後背の山地を第二神明道路が通り、須磨インターチェンジが設置されている。古くから軍事、交通上の要地として百人一首にも詠まれた須磨の関が設けられ、いまも関所跡や関守町(せきもりちょう)の地名が残る。源平の古戦場でもあり、一の谷、鵯越(ひよどりごえ)、須磨寺、敦盛塚(あつもりづか)、安徳(あんとく)帝内裏(だいり)跡などがある。須磨寺は正式には上野山福祥寺(しょうやさんふくしょうじ)で、境内に敦盛首洗池などがある。また敦盛が愛用した「青葉の笛」が収納されている。明治以降は山麓(さんろく)や海岸段丘面、海岸沿いに富豪の別荘が建てられ、武庫離宮も置かれた。第二次世界大戦後、離宮や大邸宅跡は公園化され、須磨離宮公園、須磨海浜公園、須磨浦公園などとなった。また背後の高倉山、高尾山などを切り崩し、土砂を神戸市の海面埋め立てに用い、跡地を住宅地に利用する方式がとられ、大住宅団地の建設が行われた。須磨海浜公園に市立の須磨海浜水族館がある。

[二木敏篤]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「須磨」の意味・わかりやすい解説

須磨
すま

兵庫県神戸市須磨区南部の地区。六甲山地西部の横尾山,高尾山,鉄拐山,鉢伏山などが大阪湾に接近した景勝地。山の一部は海面埋立て用の土砂採取で変貌が著しい。鉢伏山を中心に須磨浦公園があり,山麓と山頂をロープウェーが結ぶ。鉢伏山には山上遊苑,回転展望台があり,鉄拐山山頂との間をリフトで連絡。須磨海浜公園付近は古くから別荘地として開けた。阪神唯一の海水浴場で,水族館,フィッシングセンターなどがある。平敦盛愛用の青葉の笛,弁慶鐘,敦盛画像などの宝物を収蔵する須磨寺のほか,眺望に絶好の須磨離宮公園,鉢伏山,鉄拐山が須磨ノ浦に迫る付近の一ノ谷,二ノ谷,三ノ谷の源平合戦古戦場や安徳天皇内裏跡,須磨関跡などがある。瀬戸内海国立公園に属する。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「須磨」の解説

須磨
(通称)
すま

歌舞伎浄瑠璃の外題。
元の外題
今様須磨の写絵
初演
文化12.5(江戸・市村座)

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動植物名よみかた辞典 普及版 「須磨」の解説

須磨 (スマ)

学名:Euthynnus yaito
動物。サバ科の海水魚

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