頼豪(読み)ライゴウ

デジタル大辞泉 「頼豪」の意味・読み・例文・類語

らいごう〔ライガウ〕【頼豪】

[1004~1084]平安中期の天台宗の僧。伊賀守藤原有家の子。近江園城寺おんじょうじの僧で白河天皇皇子降誕を祈祷し、親王誕生の恩賞として園城寺戒壇の造立を願ったが、延暦寺反対で許されず断食して怨死。死後、化け鼠となって延暦寺の経巻を食い破ったという伝説の主となる。

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精選版 日本国語大辞典 「頼豪」の意味・読み・例文・類語

らいごう ライガウ【頼豪】

平安中期の天台宗の僧。伊賀守藤原有家の子。早くから近江の園城寺に入り、顕密二教を学ぶ。白河天皇の勅を受け皇子降誕を祈祷し敦文親王出生をみ、恩賞として園城寺戒壇造立を請うたが叡山異議により許されず、深くこれを恨み断食、遂に飢えて没す。この怨念は伝説化され「源平盛衰記」「平家物語」などに伝えられる。長保四~応徳元年(一〇〇二‐八四

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朝日日本歴史人物事典 「頼豪」の解説

頼豪

没年:応徳1.11.4(1084.12.4)
生年:長保5(1003)
平安中期の天台宗園城寺の僧。伊賀守藤原有家の子。権僧正心誉の入室の弟子となり,行円(俗名源国輔)について入壇受職した。阿闍梨となり,実相房に住した。密教の行法に優れ,朝野の崇敬を受けた。園城寺(寺門派)の長年の念願である戒壇院の設立にも執念を燃やす。承保1(1074)年に白河天皇の皇子誕生を祈願して12月26日に敦文親王が生まれ,この賞として懸案の戒壇院設立を請うた。一時勅許を得たかにみえたが,延暦寺(山門派)の猛反対にあって実現せず,両派の闘争を激化させてしまった。応徳1(1084)年,82歳のとき,仏前で結跏趺坐し,手に五鈷杵を持って入滅した。また,戒壇院設立が成就しなかったことを怨み,鉄の牙をもつ8万4000匹もの石の鼠と化して比叡山に登り,仏像や経典を食い破ったので,延暦寺の僧徒は恐れをなして比叡山山麓に鼠祠を作ったという伝えもある。<参考文献>高瀬承厳「園城寺戒壇の研究(上下)」(『仏書研究』53・54号)

(三橋正)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「頼豪」の意味・わかりやすい解説

頼豪
らいごう
(1004―1084)

平安後期の天台宗の僧。京都出身。藤原有家(ふじわらのありいえ)の子。園城寺(おんじょうじ)の心誉(しんよ)(971―1029)に就いて出家、1037年(長暦1)入壇伝法。祈祷(きとう)に効験をうたわれ、白河(しらかわ)天皇の皇子誕生を祈り効があった。1074年(承保1)天皇の勧めで、恩賞に園城寺戒壇建立を請うが、延暦(えんりゃく)寺の強い反対にあって聴許されず、頼豪は寺に籠(こも)り怨嗟(えんさ)し、天皇の慰諭にも応ぜず、断食して果てた。せっかく誕生の皇子も病死し、世に頼豪が数千の鼠(ねずみ)に化して延暦寺の聖教を食い尽くし、山徒が鼠祠(ほこら)をつくってこれをおさめたといい伝えられている。

[木内曉央 2017年10月19日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「頼豪」の意味・わかりやすい解説

頼豪
らいごう

[生]長保4(1002).京都
[没]応徳1(1084).大津
平安時代の天台宗僧。園城寺に学び,のちに実相房に住し,法験があるので有名となった。白河天皇の勅により皇子降誕を祈って効験があり,賞として園城寺内に戒壇を設けることを願ったが,延暦寺にはばかって勅許がおりず,ために断食して死んだ。俗説に彼の怨霊が数千のねずみとなって,延暦寺の経巻を食い破ったと伝えられる。

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